『心をひらく』第25号をお届けします。
最近、お世話になった先生がよく口にしていた「姥捨て山」の話が思い出されます。
お話は、単なる道徳的な例え話ではありません。
息子は、村の掟で捨てに行くのだからとか、親が長生きすると子どもの食べ物が少なくなるので仕方がないのだという理屈をつけて、内心は気が進まないけども仕方がないのだと姥捨て山に母を捨てに行きます。なるべく家に帰ってこられないようにと分かれ道を右へ左へと曲がると、必ず曲がったこところで枝を折る母。「家に帰るつもりか」と思い、更に山奥深くまで母を背負っていく息子。母を捨てる場所が見つかって、最後に一言尋ねる息子。「母さん、どうして分かれ道にくると枝を折ったのか」「お前は日頃山に来たことがないから、帰り道迷わないように家の方へ向けて枝を折っておいたよ」と応える母。
殺される者が、殺す息子の心配をしていた。この事実が身に響いた時、母親の思いの中に息子の理屈が吸い込まれてしまった。そこで初めて自分の位置が決まったのです。山に向かっていた足が、具体的に母を背負って主体的に里に向かったのです。理屈や掟を越えて担う主体が誕生したのです。させていただいて喜ぶ主体が誕生した、心がひらかれた瞬間です。このひらかれた心に導かれて、私も生活していきたいと思います。
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036生きる目的とは
片山寛隆
慌しい師走が押し迫りました。毎年一年が過ぎるのを早く感じるのは私だけでしょうか。
今年も想像をもしなかったことが次から次へと起こり、その起こったことを問い返す間もなく、次に関心が奪われていくといった時間に追われているのが、我々の日常になっています。
先日も、ある壮年の方が法要の席で「もっとゆとりをもって人生を考え、今を大事にしなければならないことは分かっていても、現実は生活に追われ、それどころではない」と言われました。
日常、生きるということは、厳しく大変な時代であります故に、経済と時間に振り回されていると言っても過言ではありません。一分でも遅れると取り返しのつかないことになったり、また或いは、一分一秒変化する株式市場の報道に一喜一憂するという社会です。
だから、現代を生きるということは、好む好まざるに関わらずそこを生きねばならぬ、故に時間と経済こそが絶対のものであるということがあります。確かに、我々が生きるということの上で、経済は大切であり、最も必要欠くべからざるものの一つでありますが、我々の先人は、このことを「お金は生きる上の大事な手段であって、生きる目的とはならない」と仰っています。
目的とはならないものを目的としてきたと気づかされてはじめて、手段としての経済や時間を見ていく眼をもつことなのではないでしょうか。そのような眼すべてを見て、受け止めてこられたのが、真宗門徒として生きてこられた先人から教えられることであります。
035人身(にんじん)受けがたし
池井隆秀
新聞を見ると、氏名の横に黒い線の入った記事に目がいくようになりました。そして、その人の年齢を自然と見てしまうのです。自分も近づいてきたのかと。
毎日が慌しく、サラリーマン生活を送れば、いよいよ日々の過ぎ去ることの速さを通感します。朝起きて、一日が始まり、職場に出勤し、また我が家に帰宅する同じパターンの毎日、そんな生活をしていると月日は凄い速さで流れていきます。それは、そのまま「空過」(空しく過ぎる)ということに繋がっていきます。そして、そこから生じる大きな問題は、あらゆる事柄に無関心・無感動・無批判な生活に流されることではないかと思います。一度立ち止まって考える時間をもちたいものです。
ご門徒の元気な方が、ある日突然亡くなられました。私たちは、明日が保証されているものとして過ごしていますが、通用しないことです。葬儀を終えた後、いつも次のことについて確認させてもらっています。
一つは、お別れした人との出遇いがあったのかということです。最後のお別れですというのは、出遇いがあってのことです。過去に本当に出遇っていただろうかという確認を通して、これから出遇いが始まるということになるのではないでしょうか。
次に、亡き人は私たちを導いてくださる仏さまであり、決して崇ったりする存在ではないということです。ともすれば自分の都合で、亡き人が私たちを苦しみに陥れる存在として考えていないかということです。
最後に、亡き人は私たちに「お前も死ぬぞ」と教えてくださっているということです。無常のことわりを目の前にさらしてくださった存在です。
この三つの確認を通して、私たちの日常の在り方を問い尋ねることが求められていると思います。受けがたし人身を賜った私たちがどのように生きるのかという問いが生まれます。
84歳のおじいさんのお葬式でした。炉に遺体を収め、扉が閉められました。その時、長年連れ添った方が、突然扉の前で、大きな声で「お父さん、ありがとう」と言われました。その言葉が今も耳の底に残ります。
034時間の花
大谷俊子
12月に入りました。子どもの頃は一年がもっと長かったように思ったのですが、大人になってから一年はどんどん短くなっていきます。
最近、ミヒャエル・エンデの童話『モモ』を読み返してみました。時間泥棒から時間を取り返してくれた女の子モモのお話です。
モモは人の話を聞く天才です。モモに話を聞いてもらっていると、生きる勇気が湧いてきたり、自分の存在の大切さに気づいたりするのです。
ある時、人々は大切な時間を盗まれてしまいました。モモはそれを取り返しに出かけます。途中、モモは時間の源を司るマイスターホラに、なぞなぞを出されます。それは時間について尋ねる、とても示唆に富んだ問題です。今この瞬間はあっという間に過去になる、だから今は無いとも言える、でもこの今があるからこそ、未来が過去に変わっていく、そして過去と未来は現在で一つとなる。モモは見事に時間の意味をとらえました。
この謎解きを読みながら、私の中では、私たちお寺が学ぶ「後生」とか「業」とか「いのち」などの言葉が巡りました。続けてマイスターホラは言います。人間には時間を感じ取るために心というものがある。もし、その心が時間を感じ取らなかったなら、その時間は無いも同じなのだよと。そして、ついにモモは時間の源に辿り着きます。そこは美しい殿堂でした。光の振り子に合わせ、美しい花が咲いてはしぼみ、咲いてはしぼみして、辺りはいい香り、不思議なハーモニーの響きに包まれていました。まるでお浄土の光景に似ています。
ところで、私たちは、夢中になったあっという間を、後では長く感じたり、時間の長さをもてあましていると、後ではほんの短い時間にしか感じなかったりします。この逆さまの感覚も、マイスターホラがいうところの心が時間を感じ取ったかどうかだと思います。振り返った時、時間を感じ取るとは、感動を覚えたということでしょう。私の周りのどんな小さなことにも、モモの見つけた時間の花を咲かせたいものです。
033報恩講
王來王家眞也
七百有余年前に亡くなられた親鸞聖人と今の私たちとは、報恩講によって深く結ばれております。聖人の作られた正信偈を共にうたう時、この頌(うた)のもつ響きは私の生命の根底と呼応し、その生命の真の意味を問わしめるのであります。
あらゆる生き物の中で、人間だけは自己の生命のもつ意味を問うという在り方に於いて他と区別されております。自己一人がその問いを背負う時、全人類の問いを荷負って立つという厳粛な意味をもつわけでありましょう。 それを聖人は、
弥陀の五効思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり(真宗聖典640頁『歎異抄』後序)
と、仰せられていたと伝えられております。ここに人生の根本問題が自己一人に荷負されており、それは聖人の教えを覚えたり知ったりすることによってのみ、成り立つものではないのであります。
それは、教えを食べ味わうことにおいて生命の活力となるのでありますから、その意味では、正信偈をよみうたう我々同行は食べ味わっているのであり、そのは背景は遠く釈尊以来連綿と伝承された仏道の歴史に裏づけられているのであります。
この意義を聖人は「如来大悲の恩徳」と仰がれ、その恩徳を仰ぐ道理を私どもは聖人から賜ったのであります。だからこそ、報恩講として大切にしているのであります。
032報恩講
花山孝介
報恩講は、私たち真宗門徒にとって一番大事な仏事ですが、一体、私たちが報恩講を勤めることのもつ意味とは何なのでしょうか。
私たちは、過去を振り返りながらいつも未来に希望をもって生きようとしています。しかし、今日の社会は、不況・就職難・リストラ等の身近な問題から環境破壊・遺伝子操作の問題、更には、新たなる戦争へと向かう国際社会の在り方、そこでは、何一つ問題が解決されないまま、より大きな事件が勃発している現実にあって、いつしか未来への夢や希望を抱くことができなくなっています。
かつて坂本九さんが歌った「明日があるさ」という曲が近年リバイバルされて大流行しました。曲名を見れば、明るく未来に向かって希望を抱かせる言葉ですが、今日の世情に照らすと、何となく悲しげな言葉に聞こえるのはなぜでしょうか。行き先の見えない未来に不安を抱いた心の裏返しのように、それはどうしようもない「今」を紛らわす嘆きの言葉にさえ聞こえ、そこに空しささえ感じるのは私だけでしょうか。
しかし、よくよく考えてみると、その空しさは、単に未来を悲観し絶望するだけではないのかもしれません。空しさを感じるその奥底には、実は「今」を大切に生きたいという願いの表れではないかと思います。
どのような出来事に遭遇しても、全ては無常の人生の一場面です。だからこそ、全ての出来事は同時に一度しかない出来事です。自分の意に添うか否かはありますが、それでもいのちの一瞬一瞬の大切な出来事です。
これからの人生、自分の思い通りの未来が来るか分かりません。その意味では、不安を払拭することはできません。しかし、それだからこそ光り輝くような「今」を大切に生きたいというのが、、私たちの深い願いであり、そのことを聞き開く所に、報恩講という仏事があります。
031報恩講
渡邊 浩昌
報恩講は、「如来大悲の恩徳は・・・」で始まる、いわゆる「恩徳讃」でもって締めくくりとします。研修会等の最後にも歌いますが、特に報恩講のお勤めには感慨深いものがあります。
言うまでもなく、「恩徳讃」は親鸞聖人制作の「正像末和讃」の最後にあるものです。そこでは如来と師主知識に対する恩徳が表現されていますが、直接的には法然上人に対する恩徳です。法然上人に出会うことがなかったならば、「このたびむなしくすぎなまし」とさえ和讃に述べられていることからもよく知られるところです。
古来、人との出会いということは、いかなる人においても大切な出来事ですが、特に信仰においては人との出会い、師との出会いは決定的な意味をもちます。親鸞聖人は法然上人との出会いにより聖人自身の人生が決まったのでしょう。その人生とは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という人生です。
「出会い」ということで思い出すのが亀井勝一郎さんのことです。亀井さんは親鸞聖人に強く惹かれ深い研究もされていた方ですが、自分が心から念仏申すことができないのは「生ける導師」に出会わなかったことによると述べておられます。親鸞聖人に帰依されているが、心から念仏申すことができないというところに亀井さんの「もどかしさ」と「空しさ」があったのではないかと思われます。
真の知識にあうことは
かたきがなかになおかたし
(真宗聖典499頁『高僧和讃』)
と親鸞聖人は和讃されていますが、これは遭い難くして遇い得た聖人の歓びと深い懺悔(さんげ)の表白(ひょうびゃく)ではないかと思われます。
030いのちを愛(め)づる
荒木百合子
今、改めて胸に手をやると、確かに響く心臓の鼓動が聞こえてまいります。母の胎内で動き始めてから絶え間なく、しかも正確に、日常生活を送る私を生かせてくれています。
人として生まれた私たちは、このいのちをいただいて今を生き、いったい何処へ行くのでしょうか。でも残念ながらこんな大切な問いかけすら考えもせず、日々当たり前のこととして、雑多でめまぐるしい現在を生きている私がいるのです。
映画の一シーンで、フーテンの寅さんが鳥羽の海を見ながらしみじみ言いました。「人はどうして生きているんだろうねぇ・・・」とても大きな問いです。本当に私もそう思います。人という字は、互いに寄り添い支え合ってできていると、私たちは皆助け合って生きているんだと、自分だけ一人だけでは生きていけない、周囲のありとあらゆるものによって支えられ、今このいのちを生きているのだと、様々なお話の場で、何度も聞かせていただいては、また忘れている私ですが、ある時には、ストーンと胸深く感動すら覚えて入ってくることもあるのです。
先日、新聞の読書欄で、JT生命誌研究館館長である中村圭子さんは、平安期の「『提中納言物語』の「虫めずる姫君」にも、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』にも、多少周囲の人々に迷惑をかける性格をもつこの主人公が、虫の本質や菌や植物を栽培して物の本体を探求しようとする姿勢に、「いのちあるものを愛づる者は、愛づる対象にもなるのである」と、興味深い指摘をされていました。また、「人への思いやりと、我が道を行く心意気とが重なり合ってこそ生きる意味があるのだ」とも言っておられます。
私たちは、善いことも悪いことも全部認めた自分を見捨てないで、いのちを愛づるという、尊く、いとおしく、慈しむこころをもって共に生きていきたいと思います。
029皆月
松村 至
東員町に住んでおります、松村と申します。
数年前ですが、テレビの深夜番組で『皆月』という映画を見ました。妻に全財産を持って逃げられてしまった、冴えない中年サラリーマンを奥田瑛二さんが演じておられ、その奥さんが、家を出て行くときに残した手紙の初めが「みんな月でした、もう限界です」というテーマとなる言葉でした。その後、世の中であまり陽の当たらない部分を生きる、数人の人による、いわゆるエロ・グロ・ナンセンスを盛り込んで展開する物語ですが、非常にハッキリしたメッセージがありまして、それが、映画の最後のほうで奥田さんが扮する主人公によって語られます。それは「そうだ、人は皆、自分で輝くことができない、月なんだ」というものです。その言葉が明るさと確かさをもって語られました。「所詮自分では輝けないんだ」というのとは違って、「俺たちは皆月でしかない、しかし、月であることは約束されている。自ら輝くことのできない者として生きることは、何によっても邪魔されていないんだ」という響きがありました。「輝くことのできない者で結構」というのが、私の受け止めた映画全体からのイメージでした。
そういう私は、太陽も知らず、自分が月であることも知らず、いつか自分が輝いて、そして皆を照らしてあげたいなどとチョッと思いながら、うわ言のように「何とか輝きたい」「何で輝けんのだろうか?」とつぶやきつつ、お湯で薄めて、梅干を入れて潰した焼酎を、二杯・三杯・四杯と今日もまた飲んだくれていることであります。
028お念仏申す道
森 英雄
自分をごまかす世間の道は 不安で空しい
心を豊かにするお念仏の道は 自由で明るい
これは福岡県の大牟田市在住の村上不退様よりいただいた法語です。
世間の道は「我、良かれ」という心より起こり、自分に値打ちをつけていく道であり、他人を裁いていく道でもあります。他人との差を立てて自らを確認していく道ですから、当然知らないこと・出来ないこと・負けることは、死ぬことと等しい恥ということとなります。ですからいつも緊張し、他人を馬鹿にした分、他人からも馬鹿にされないようにと、ガードを固めて心を氷のようにしていく道です。もちろん負けられませんので、知らないことも知ったかぶりをし、出来ないことには言い訳をし、負けるが勝ちと理屈をいう心で生きているので、不安で空しい心を抱えて生きることともなります。
それに対してお念仏申す道は、私の本性は善いところなど一つもない、怖い心で生きていることを知らせてくださって、自分のありのままの姿をそのままに受け取らさせていただく道でもあります。
その本当の姿を知らせんがために、仏さまは嫌な人、苦手な人となって、十重二十重に取り囲んではご苦労なさっておられます。
また、今まで見たくないと思っていた心、嫌がっていた心、善い人間と思われなくては見捨てられてしまうのではないか、と思っていた不安な心がお念仏の心に出会って溶かされる道でもあります。
本当にとんでもない心が縁を待って起こってくださり、私にまでなってご苦労くださっている法蔵菩薩さまの御声が聞こえてくる道でもあります。私も死ぬまでなくならないこの煩悩を消化してくださるお念仏の道を、皆さんに導かれながら、ひと筋に歩ませていただこうと思います。