三浦崇
春風と共に甲子園球場から選抜高校野球の大会歌『世界に一つだけの花』のメロディが流れてきます。
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン
日本ではここ5年連続して、年間の自殺者が3万人を超えていると報じられています。世界でトップの長寿大国日本は、また世界で有数の自殺大国でもあるということでしょうか。このことについて、作家の五木寛之さんは、「十数年にわたる泥沼のベトナム戦争で、アメリカが失ったアメリカ人の命は約六万人であった。日本では空襲警報もならず、爆弾も落ちず、機関銃の弾も飛んでこず、物は溢れスポーツや音楽や様々な催しが華やかに行われている中で、わずか2年間でそれ以上の一般市民の死者が出ている。平和な時代の陰で見えない戦争が続いているのではないか」と言われます。
4月1日は親鸞聖人の、そして4月8日はお釈迦様の誕生日です。お釈迦様は誕生されてすぐ七歩あゆまれて「天上天下唯我独尊」と宣言されたと伝えられています。
お釈迦様の誕生の姿を通して仏教が私たちに教えるものは、人間は生まれて歩むものであるということです。そして、その歩みは、他人と比べ競い合って、自分が少しでも優れたものをめざす、最上尊・ナンバーワンを獲得しようとする歩みではなく、他と比べる必要がない、かけがえのない、最上尊・オンリーワンの自分に目覚め、そのいのちを生きよと教えるものであります。
それは、満足を求めての歩みではなく、満足から出発する歩みであります。いのちを飾り立てる歩みではなく、生き生きといのちを輝かせて生きる歩みであります。
世界でトップの長寿国を手に入れて、延びた寿命をどう生きるのか。その道が見出せない限り、長寿国はそのまま自殺大国にならざるを得ません。
静かに、しかし深く強く「吾(われ)、当(まさ)に世において無上尊となるべし」とのお釈迦様の教えが求められていることを思わずにおれません。
藤本和哉
『世界に一つだけの花』この歌は、人気グループ「スマップ」が歌ってヒットした歌です。今年の春の選抜高校野球大会のテーマソングにもなっています。様々な歌がありますが、この歌の歌詞にはたいへん考えさせられるものがあります。歌の中で、次のようなメッセージを送っています。
僕ら人間はどうしてこんなに比べたがる
一人ひとり違うのに
その中で一番になりたがる
そうさ僕らは 世界に一つだけの花
一人ひとり違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
一つとして同じものはないから
ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン
まさに、今の人間社会の現状を言い当てていますし、人間いかに生きるべきかに対して、一つの答えを示してくれています。一人ひとり違うのだから、他人と比べるよりも自分なりの生き方を大切にすること、みんなの中の一番よりもかけがえのないたった一人の私でありたいと訴えているのです。
人間本来の生き方について考えさせられます。私たち一人ひとりが「特別なオンリーワン」であれば、先に咲いた花を羨むことはないのです。いつ、どこで、どんな花に咲こうともかけがえのないたった一人の私なのです。しかし、ついつい背伸びをしたり、他人と比べてしまっている自分がいるのです。それも人間だからでしょうか。
『阿弥陀経』に「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」といところがあります。それぞれの色が、それぞれの色に光るということです。「オンリーワン」である、ありのままの自分を素直に受け入れて、一日一日をていねいに生きたいものです。
安田豊
「ご院さん、大事な体だから風邪をひかないでね。代わる人がいないんだから」
冬場のお参りにお邪魔をさせていただくと気持ちのこもった暖かいこの言葉を何度となくかけていただきます。「ありがとうございます。あなたもお体を大切に。代わりはいませんよ」といつも返答をするのですが、勿体無いことに「有り難い」とは思うものの、さしてそれ以外の思いはありませんでした。
そんな日々を送る中、通りがかりの寺院の掲示板にふっと目がとまりました。
「周りの人たちの愛が私を育ててきたのだ。それを忘れてはならない」
私はこの言葉が目に飛び込んできた瞬間、あの会話が頭に浮かび、自分自身が恥ずかしく、また情けなく思えたことをよく覚えています。その時の気持ちを言葉にすると何かぎこちないのですが、私はまさにその文字によって今までの自分の姿に気づかされたのです。
皆さんから支えられ、お育てをいただいているということを忘れた生活を送る毎日。今こうして気がついてみたら、すでに住職の身だったという事実。そのお育ての上に成り立っている事実に気づかせていただいた時、今まで以上に皆さんからのお心遣いと、また同時に住職の責務を痛感せずにはおれませんでした。
本当に何気ない日常会話がきっかけでしたが、「日々このような形でお育ていただいているのだな」と気づかせていただきました。そう思う今この時もお育てをいただいている私です。
瀧幸子
先日、同朋の集いで、あるお方が「近頃は、冷蔵庫の中で食べ物を腐らせる達人が増えましたね」と皮肉な指摘をされました。私も同じような失敗をしています。安い品を見るとついつい購入してしまい、いつしか賞味期限切れとなったものが冷蔵庫の奥から出てきます。そのたびに「ああ、勿体無いことをしてすみません」と小声でわびながら、そっと捨ててしまいます。
食べ物を粗末にしてしまった申し訳なさから出る「勿体無い」という感覚と、昔の人が言われた「勿体無い」ということとは少し違った面があるようです。
平野修先生は『親鸞からのメッセージ』という著書の中で「勿体無い」ということについて述べておられます。「法蔵菩薩」とか「本願力」とか表現されても私たちには馴染みにくいだろうということからでしょう。身近な例として「勿体無い」という言葉の意味が説かれていました。
「勿体無い」とは体(主体)が無いということではない。それは、例えばのどが渇いてやりきれない時に冷たい水を飲んで「ああ美味しいなぁ、水って有り難いなぁ」という気持ちになる。水自身には「どうかしてやろう」というつもりはないけれど、「ああ美味しいなぁ」ということを通して愛情というものを感じ取ることがある。水に限らず、お米など私たちを在らしめている繋がりいついても、何か「願い」というものがあるかのような働きを感じるということで、それを昔から「お陰さま」とか「勿体無い」という言い方で教えられてきたんです、と。
平野先生のご了解に聞いてみますと、私たちが軽い意味で使っています「勿体無い」という言葉も、「勿体無い無量のご縁の集まりですよ」と、私たちの生き方が問われ、願われているように感じられます。
「勿体無い」とは、本当の願いに生きて欲しいという「南無阿弥陀仏」に繋がる言葉として、大事にしていきたいものです。
栗田龍麿
今年の正月過ぎ、50才前後の女の人が相談があると言って訪ねてみえました。この女性は、東北出身で1年程前私たちの地区へ引っ越してきた方で、去年、東北地方に住む母親と妹が相次いでで亡くなったそうです。
それで妹さんの看病に行った際、なぜこんなに不幸が続くのかと、占い師の所に行ったところ、占い師から「水子の霊がたたっている」と言われたそうです。この女性は若い時に流産しており「本当にそんなことがあるのですか」と相談にみえたのです。
それでいろいろ話し合ったのですが、私が「あなたは子どもや親に悪いことがあるように思ったことはありますか」と尋ねたところ「そんなことはありません」という返事でした。「それならこの世に生まれなかった子どもも、あなたとは親子の関係であり、親の不幸を願っていることはないのでは」と話したところ「ああそうですね」と納得して帰られました。
私たちは日常生活の中でいろいろな問題にぶつかります。それを背負いきれないため原因を外へ外へと求めていくことによって、ますます苦しみの中へ入っていくのではないでしょうか。いろいろなことが起こって、うろうろするその自分を法に問うのが聞法です。
安田理深先生は、信仰とはすべてのことを背負える肩を与えられることだと教えておられます。
長崎慶麿
親鸞聖人が書かれた『高僧和讃』の中に「濁世(じょくせ)の起悪造罪(きあくぞうざい)は 暴風駛雨(ぼうふうしう)にことならず 諸仏これらをあはれみて すすめて浄土に帰せしめり」という和讃がございます。(真宗聖典494頁)五濁悪世の衆生が、互いに自分の考えを正当化し、他人を非難して、他の立場に耳を傾けようとしない。そのことによって、人間不信に陥り自分中心にしか生きられなくなってしまう。人々は不健康になり、人として生きる喜びがもてなくなって本当は幸せを求めているのに、かえって不幸の因ばかりつくっているような、そういう我々の生活は、暴風駛雨の如くであると。暴風は台風のこと、駛雨は俄雨のこと。その暴風駛雨ということと我々の生活と全く同じことだといわれるのです。
同じ事柄であっても、我々の根性は、機嫌のいい時には素直に聞き入れることができるが、機嫌の悪い時は素直に聞き入れることができない。例えば、今まであんな善い人はいない、本当に信頼することができる人だと言っていたのに、ちょっとしたことから、その人を疑ったり憎んだり、陥れようとしたりします。本当に我々人間の根性はお天気のようなもので、何時どうなるか分からない。まさに「俄雨の如し」ではないでしょうか。
今日、イラクへの支援問題・北朝鮮の拉致問題・その他の諸問題も、国の為、人の為という美辞麗句を並べ立てて、対処しようと努力しているようですが、その中身というと、国対国、人対人との思惑がからみ、虚々実々の駆け引きの中で、自国を、自分を善しとする私心でもって対処していることも、暴風駛雨に異なることがないと、諸仏は見抜いておられるのです。そういう哀れな生き方しかできない我々のあり方を「お前らよ、本当にそれでいいのか」「どうか本当のことに出遇ってくれよ、お念仏申せよ」と叫び続けてくださっておられるのが、このご和讃ではないでしょうか。
北畠知量
往生とは、往って生まれると書きます。もちろん、それは浄土に往って新たな人間として生まれるということです。けれども、そのことが具体的にどういうことを指すのかは、今日ではきわめて分かりにくくなっていますね。
浄土真宗でいうところの往生とは、今ふうに言えば、「自我の世界」から「自我に執着しなくてもよい世界」に往って生まれるということになるでしょうね。
私たちには「自我」というものがあります。私たちは表によそ行きの面を着け、内では様々な計算をめぐらし、生き甲斐なるものを求めてがんばって生きています。その生き甲斐の中身をよくよく考えてみると、要するに、元気で長生きして威張りたいということに尽きるようです。
親しい人が亡くなると、悲しいけれども元気で生きていることを密かに喜ぶ自分がいます。つましく暮らしている人を見ると、「そこまで倹約しなくてもいいではないか」と思い、自分の何気ない贅沢にかすかな優越感を感じます。「人さまに喜んでもらえたらそれでいい」というボランティアでも「何もしない人よりはましだ」と威張っているものです。それが私たちの自我の姿なのです。
往生とは、そんな自我の生き方に執着せず、そんな生きざま全体を笑って見ておられるような心の世界に往くということなのです。私たちは、心の底から響いてくるいのちの声に耳を傾けながら、浄土往生を願うべきであります。そして生きているうちに、一度は浄土に往生すべきであります。自力を棄てれば、往生は決して難しいことではありません。
藤井慈等
親鸞聖人の書かれた『教行信証』の「信の巻」に、『涅槃(ねはん)経』という経典の言葉が引かれています。それは「慙愧(ざんぎ)あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」(真宗聖典258頁)という言葉であります。
慙(ざん)も愧(き)も「羞(は)じる」という意味ですから、慙愧というのは「頭が下がる」ことだと教えられています。つまり頭が下がるところに、人と人との本当の繋がり、出遇いが生まれることであります。
私は今、一週間ごとに、昨年暮れに亡くなったあるおばあさんの中陰のお逮夜にお参りしております。実はそこで、この「慙愧」という言葉を紹介したのです。そうしますと、それを聞いておられたおばあさんの息子の一人が、こんな話をしてくれました。多分、お葬式が終わった後のことでしょうが「おばあさんもこれで楽になったんじゃないか」と、夫婦で話をしていたそうです。ところが、それを聞いていた子ども、おばあさんの孫が、「あんたら、何ということを言うとるんや!」と、泣いて怒って抗議したというのです。そこで、このおばあさんの息子は「子どもの一声で親のほうが教えられました」と、語ってくれました。
私はそれを聞きながら「あんたら、何ということを言うとるんや」という孫の言葉が「楽になった」ということと、その人の一生涯をどう受け止めるかということとは、問題の相が違うということを照らし出す「いのちの叫び」に聞こえました。実際、その人になってみなければ分からない、一人ひとりの重い人生を生きています。ところが、その生涯に頭が下がるというよりは、いろいろと評価し、意味づけ、それによってむしろ自らを無罪放免にする、限りない自己否定が覗いてくるのです。
いくらかの人生経験や聞法経験を答えとして、そこに腰を下ろしている私たちの小賢しさを「あんたら、何ということを言うとるんや」と一喝する、そんな仏さまからのお年玉をいただいたように思いました。
田代俊孝
「南無というは帰命なり、またこれ発願回向(ほつがんえこう)の義なり」(真宗聖典840頁)
蓮如上人の『御文(おふみ)』に再々引かれる善導大師のお言葉です。理屈ではともかく、この言葉の意味こそが私には長らく頷けませんでした。なぜ、南無が発願回向なのでしょう。
ある時、大学へ行っているわが子たちの振る舞いを見ていてふと感じました。毎月の仕送り以外にも、あれこれとお金をねだるこの子たちは、親をどう思っているのだろうか。親は子を育てて大学へやるのは、当たり前だと思っているのではないだろうかと。親は子に奉仕するものと思っているのではないだろうかと。
思えば、この私も学生時代にそう思っていました。この歳になってようやく、親の願いに気づいて頭が下がります。田舎の小さい寺の住職をしていた父が、どうして男三兄弟を大学まで行かせることができたのでしょうか。今、自分が子を持ってようやく親の願いが受け止められました。
仏の願いもまた同じことかもしれません。南無とは梵語のナマズで、インドの人は、今でもナマステと手を合わせてお礼をします。中国の言葉ではそれを帰命と訳します。帰命とは「頭を下げる」のではなく「頭が下がる」との意味です。仰ぐべきものに出会った時に、自ずと頭が下がるのです。私たちは自分の力で生きているんだと力んでいます。その私の自我が砕かれ、絶対無限の妙用(みょうゆう)に生かされ、支えられていると気づかされた時、つまりその大いなる願いに気づかされた時、南無と頭が下がってくるのでしょう。
南無とは、まさしく法蔵菩薩の発願された願いが回向されてきた姿だったのです。もちろん、そこに報恩の情も湧いてくるのです。
出雲路善公
新年明けましておめでとうございます。皆様方は昨年どういう年を過ごされましたでしょうか。私たちを取り囲む社会状況にはずいぶん様々なことがありました。年頭の言葉として、「呼応するいのち」ということを述べました。昨年師走に入り、一年間を振り返るにあたり、心に浮かんだ言葉です。
例年のごとく年末が近づいてきますと、あちらこちらから「喪中につき年始のご挨拶は失礼いたします」という寂しい便りが何通かまいります。その便りを手にしました時、思いは種々動きますが、年頭の挨拶は年に一度の挨拶である場合でもありますので、私は申し上げることにしております。かつて金子大栄先生が「この年になると、年々親しい老若男女が亡くなっていかれます。年々彼の土はにぎやかになりますなあ」とおっしゃっていたことを思い出します。先生が亡くなられてからずいぶん久しいことですが、年末年始になりますと、いつも思い出される言葉です。生きてある人々に思いをはせ、すでにこの世には亡き人々を憶念されている先生のご心情が偲ばれるお言葉です。いのちは、人の思いを超えたものだと教えられておられます。その通りだとうなづかされます。思いを超えたいのちであるならば、生死をも超えているに違いありません。生死をも超えて呼応するのは当然のことでしょう。思い、分別を超えてあるいのちに垣根があるはずがありません。にもかかわらず私たちは老少善悪、貴賎上下、軽重大小などの差別視しかできない自分自身を否定できません。年々歳々、垣根を築き上げ、それを一生懸命に補強している、わが身を恥じずにはおれません。蓮如上人は、歳末のお礼に来られた人々には「歳末の礼には、信心をとりて礼にせよ」とおっしゃり、年始の挨拶に道徳には「念仏申さるべし」と応えられたそうです。年末、年始は心改まる時といわれます。その時にまでも、分別・名利の垣根を築き上げてしまおうとするわが心根を戒め、帰命に身をすえ、この一年を過ごして参りたいものです。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。