岩田信行
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要がいよいよ来春に迫りました。この12月21日から始まった真宗本廟報恩講は、謂わば「お待ち受け」の総仕上げです。
その押し迫ったところで、「いまさら」とお叱りを受けそうですが、改めて「お待ち受け」ということを再確認したく思います。
宗祖の85~6歳頃の有阿弥陀仏(うあみだぶつ)宛のお手紙の結びに、
この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし。あなかしこ、あなかしこ。(『末燈鈔』12 真宗聖典 607頁)
と、親鸞聖人ご自身の願生者の情がしたためられています。
このお言葉を素直にいただくとき、「お待ち受け」するのは、御遠忌法要に遇う「わたし」ではなく、親鸞聖人がこの「わたし」を「お待ち受け」くださっておるのだということになります。すると途端に、「お前はどの面さげて御遠忌に行くのか」と幾人もの先達の顔が浮かんできます。「物見遊山のつもりは毛頭ありません」と言い切りたいところですが、そんな心が無いと言い切れない「わたし」があります。
「真宗門徒一人もなし」の懺悔(さんげ)に始まった同朋会運動「初」の宗祖の御遠忌です。部落差別・靖国問題、開申(かいしん)事件以来の教団問題、宗門の戦争責任、憲法9条の問題等々、「状況」は宗門体質とともに「あなたは真宗門徒なのですか」と問われ続けて「今」があります。
かつて平野修先生は平成10(1998)年蓮如上人五百回御遠忌を「慚愧(ざんき)の御遠忌」と表白(ひょうびゃく)されました。蓮如上人に申し訳ない、恥ずかしい、と。その際、宗祖の御遠忌は誰もが「讃嘆の御遠忌」と仰がれることは異論も反論もないでしょう、とおっしゃっておられましたが、私たちに果たして今、そう言い切れるのか、厳しい教言となって迫ってきます。
私は、歳50半ばを過ぎましたが、自覚的には、親鸞聖人をして750年間「待ちぼうけ」させてしまってきた「わたし」があることを、「御遠忌」を前に考えさせられています。
ある研修会で「この国には二つの族がある。一つは皇族、そしてもう一つは寺族だ。この二つの族を自己に課題化することなしに『真宗門徒』はないと言っては言い過ぎなのか」とおっしゃっておられた先輩がありました。
宗門では修復なった御影堂の「見真」額が問題になっています。ちょっと視点が変わりますが、宗祖滅後750年間の宗門と日本人・人間の体質を貫いてある問題を課題化する教材(教化の貴重な素材」として、親鸞聖人を「待ちぼうけ」にしてしまった、その気づきの験(しるし)として、今私たちは「見真」勅額に注目しています。