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桑名別院声明作法講習会のお知らせ

桑名別院声明作法講習会のお知らせ

本年度も、桑名別院声明作法講習会を全5回で開催いたします。

どなたでも参加していただけますので、みなさまお誘い合わせのうえ、ご参加ください。

※第1回、2回は、3月に開催される得度義務研修における声明を中心に学んでいきますので、研修の受講をお考えの方はぜひこの機会にご参加ください。

詳しくは下記のチラシをご覧ください。

※チラシに記載の参加申込書を印刷し、必要事項を記入のうえ、講習会当日に受付にご提出ください。

 

声明作法講習会開催のご案内pdf

三重教区・桑名別院の書籍のご案内

 三重教区・桑名別院で発行の書籍をご紹介いたします。お求めは三重教務所・桑名別院事務所までお問い合わせください。

◆『観無量寿経』「是旃陀羅」問題とは何か

三重教学研究室による学習会講義抄録『『観無量寿経』「是旃陀羅」問題とは何か』(鶴見 晃 講述)が発刊されました。寺院や組における学習資料として、是非ご活用ください。
頒布価格は200円です。

◆桑名別院報恩講『親鸞聖人讃仰講演会』講義録1・2

三重真宗教学学会から、下記のとおり、親鸞聖人讃仰講演会講義録を発行しています。
頒布価格は200円です。

◆心をひらく422020年度テレホン法話集) 頒布価格200円

心をひらく39号、40号は売り切れました。41号は200円、     37,38号は150円で頒布しています。

●申し込み・お問い合わせ                 真宗大谷派(東本願寺)三重教務所
〒511-0073桑名市北寺町47            TEL(0594)―21-8000            FAX(0594)-21-8010

037あとがき

テレホン法話集『心をひらく』第34集をお届けします。昨年(2012年)一年間の36人のご法話を収めました。

桑名別院宗祖七百五十回御遠忌法要(2014年3月)の勤修に向け始動した昨年は、まさに「震災後の御遠忌」という本山が背負ってきた葛藤や課題を、今度は教区としてどのように引き受けていくかが問われた一年ではなかったでしょうか。その課題の難しさ、大きさを前に、私たちは苛立ち、迷いながら、話し合い、確かめ合おうとしてきたのでした。

「震災後の御遠忌に遇う」ことの意味は、私においては未だ不確かなままです。それでも教えを聞いていくこと、だからこそ教えを通して問うていくこと、そのことを手放さないこと、それしかないことを皆様のご法話から教えられています。

037あとがき

 テレホン法話集『心をひらく』第三五集をお届けします。
 昨年(二〇一三年)一年間三六名のご法話を収録いたしました。担当者の皆様に御礼申し上げます。

 当方、前幹事の時より、六年にわたって本冊子の編集に携わらせていただきました。
 折々のご法話に随分教えられ学ばせていただきました。その見方や問題意識に大いに肯かされることも再々でした。

 そして、何より自らの信念を言葉にしていく難しさと格闘された皆様の歩みに励まされました。ありがとうございました。

 テレホン法話事業並びに本冊子の更なる充実を願いつつ、次代の編集子にバトンタッチさせていただきます。
                                               合掌

037あとがき

テレホン法話集「心をひらく」第36集をお届けします。昨年(2014年)一年間の36人のご法話を収めました。

社会教化小委員会では、昨年(2014年3月)の「三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」で取り上げた「原発問題」「ジェンダー問題」と、昨今、社会問題になっています「憲法九条改正」の三つの問題を2014年度の課題として、公開講座などの事業をおこなってまいりました。

またこのテレホン法話も、教区内の有縁の方々お一人おひとりが担った問題を、宗祖の教えを通してお話しいただいたものです。

法話者の多角的な視点を通して様々な問題を見たとき、問題の本質には、個人的、社会的な区別はないと教えられました。発刊にあたり関係者諸氏のご苦労に感謝申し上げます。

036まことの拠り所

折戸 芳章

 「じぇじぇじぇ」、「今でしょ」、「倍返し」、「アベノミクス」、「お・も・て・な・し」と、今年の流行語大賞候補が他にも多く思い出されます。

 候補にはなりませんでしたが、『広辞苑』にも載っていない「誤表示」という言葉が流行しました。有名ホテルのレストランなどでメニュー表示と異なる食材を使用していた問題で、「偽装」ではなく「誤表示」だと釈明に繰り返し使用したことから生みだされた流行語です。人は思い込んでしまうと、それが偽装であれ、誤表示であれ、間違っていることさえ分からなくなり、自分をも見失ってしまうものなのです。

 今年の『本山法語カレンダー』一〇月で「世の中が便利になって一番困っているのが実は人間なんです」とお教えいただいています。

 私たちは、まさに日常の便利さと幸せを追い求めてきた結果、本当の拠り所までも見失い、間違え、さらには偽装し誤表示していたことに、東北沖地震を発端に原発をはじめとする諸問題に苦慮することで、今になってやっと気づかされたのではないでしょうか。

 「頼りにならんものを、頼りにすることほど一番頼りにならんのに、その一番たよりにならんものを一番頼りにしているから、本当に頼りにならん」のです。
 しかし、頼りにならんものを頼りに生活してきたことは事実であり、のがれられません。          

 いよいよ今年も残り数日となり、来年春には三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤まります。
 御遠忌を機縁に、私たちの日常の生活形態が偽装と誤表示を拠り所にして、間違った思い込をしていないかを問い直し、私の身の事実を親鸞聖人の教えによって顕かにしていかねばならないのだと思えてなりません。

(南勢一組・法受寺住職 二〇一三年一二月下旬)

035人生にかけられた願い

片山寛隆

  身近な人の死は悲しい
  しかし、その死から何かを問い学ばなければ
  そして、そこから何かを生み出さなければ
  もっと、悲しい

という言葉が、あるお寺の掲示板にありました。

 亡くなった方をご縁として、葬儀、法事を営むということが行われてきました。先立って往かれた方は、自分の生涯を通して、生きるとはどのようなことかということを、身を以てお知らせくださったということです。

 亡くなった方の願いと申しますか、先立った親は残していく子供達に何を願いとしているかということは、我々自身が残していく子供達に何を願うかということを考えれば分かることではないでしょうか。

 子供に何を願うか? やはり、幸せに暮らして欲しいということがあると思います。
 けれども、よくよく案じてみると、お互い自分の生涯を考えてみると、誰だって幸せを願いとするものの、それがいつもいつも叶えられる人生ではなかったということ、もっと言えば、都合のよい人生を送りたいと言うものの、我々が実際に歩む人生というものは、都合通りではないということです。思いがけないことにも遭わなければなりませんし、考えたことのないような災難にも出遭わなければならないというのが人生です。
 そういう生涯を、亡くなった人、先立った人も歩んでこられたに違いありません。

 人生は、お互いの都合ではありません。都合が悪いことが嫌いといっても、その事実を歩んでいかなければならないのが人生です。
 だから、どんなことがあっても、生きるとはこういうことだと、夢を見るのではなく、この人生の事実を踏まえながら、どんな中にも絶望せず、しかも人間に生まれてよかったというようなものを見開いて、生き死ぬ身になって欲しいということが願われているのではないでしょうか。

(三講組・相願寺住職 二〇一三年一二月中旬)

034御遠忌の課題

大橋 宏雄

 来年三月に三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤まります。
 御遠忌法要は五〇年に一度、それは一生に一度の法要だと言ってよいのではないかと思います。その一生に一度の『時』と『場』としての法要が、私にとってどういうものであるのかを考える一つの手がかりとして、報恩講ということが思われます。

 報恩講はそれぞれの場で年に一度勤められますが、報恩講について「三六五日報恩講だ」ということを聞かせていただいたことがあります。それは報恩講が単に親鸞聖人の御命日の法要ということだけではないということを教えてくださっているのだと思います。

 その「三六五日報恩講だ」という言葉から私が思うのは、「姿勢が問われる」ということです。
 姿勢とは聞法の姿勢ということもありますし、それはそのまま生きる姿勢ということにもなろうかと思います。
 そして、「姿勢」ということで思い起こされるのは、これまで聞かせていただき、今も聞かせていただいている先生や先輩方の姿です。

 そして、その姿に私は「自分をごまかさず問うていく」ということを感じます。それは大変難儀なことではありますが、そうでなければ何も聞こえないのだと思います。

 「御遠忌」ということ、そして「ごまかさない」ということを思う時、これも聞かせていただいた言葉が元なのですが、
 「まるで親鸞聖人のことを知っているような顔をして御遠忌と口にしているが、果たして私は親鸞聖人にお遇いしたといえるのか。お遇いしたいと思っているのか。」
という声が聞こえてきます。それは決して私を否定する声ではなく、私を歩ませる、私の姿勢を問う声として聞こえてきます。

 そして最後に、『時』ということを思うと、今の姿勢を問うということが、これまでを見直させ、これからを見据えさせるのではないか。そのことは、一生に一度の『時』と『場』としての御遠忌が、まだしばらくは生きているつもりの私に、「今」という時を重く突きつけてくるように思います。

(中勢一組・淨願寺候補衆徒 二〇一三年一二月上旬)