12月20日より23日まで桑名別院報恩講を厳修いたします。
日程・詳細などは下記チラシをご覧くださいませ。
三重教区・桑名別院で発行の書籍をご紹介いたします。お求めは三重教務所・桑名別院事務所までお問い合わせください。
◆『観無量寿経』「是旃陀羅」問題とは何か
三重教学研究室による学習会講義抄録『『観無量寿経』「是旃陀羅」問題とは何か』(鶴見 晃 講述)が発刊されました。寺院や組における学習資料として、是非ご活用ください。
頒布価格は200円です。
◆桑名別院報恩講『親鸞聖人讃仰講演会』講義録1・2
三重真宗教学学会から、下記のとおり、親鸞聖人讃仰講演会講義録を発行しています。
頒布価格は200円です。
◆心をひらく42(2020年度テレホン法話集) 頒布価格200円
心をひらく39号、40号は売り切れました。41号は200円、 37,38号は150円で頒布しています。
●申し込み・お問い合わせ 真宗大谷派(東本願寺)三重教務所
〒511-0073桑名市北寺町47 TEL(0594)―21-8000 FAX(0594)-21-8010
テレホン法話集『心をひらく』第34集をお届けします。昨年(2012年)一年間の36人のご法話を収めました。
桑名別院宗祖七百五十回御遠忌法要(2014年3月)の勤修に向け始動した昨年は、まさに「震災後の御遠忌」という本山が背負ってきた葛藤や課題を、今度は教区としてどのように引き受けていくかが問われた一年ではなかったでしょうか。その課題の難しさ、大きさを前に、私たちは苛立ち、迷いながら、話し合い、確かめ合おうとしてきたのでした。
「震災後の御遠忌に遇う」ことの意味は、私においては未だ不確かなままです。それでも教えを聞いていくこと、だからこそ教えを通して問うていくこと、そのことを手放さないこと、それしかないことを皆様のご法話から教えられています。
テレホン法話集『心をひらく』第三五集をお届けします。
昨年(二〇一三年)一年間三六名のご法話を収録いたしました。担当者の皆様に御礼申し上げます。
当方、前幹事の時より、六年にわたって本冊子の編集に携わらせていただきました。
折々のご法話に随分教えられ学ばせていただきました。その見方や問題意識に大いに肯かされることも再々でした。
そして、何より自らの信念を言葉にしていく難しさと格闘された皆様の歩みに励まされました。ありがとうございました。
テレホン法話事業並びに本冊子の更なる充実を願いつつ、次代の編集子にバトンタッチさせていただきます。
合掌
テレホン法話集「心をひらく」第36集をお届けします。昨年(2014年)一年間の36人のご法話を収めました。
社会教化小委員会では、昨年(2014年3月)の「三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」で取り上げた「原発問題」「ジェンダー問題」と、昨今、社会問題になっています「憲法九条改正」の三つの問題を2014年度の課題として、公開講座などの事業をおこなってまいりました。
またこのテレホン法話も、教区内の有縁の方々お一人おひとりが担った問題を、宗祖の教えを通してお話しいただいたものです。
法話者の多角的な視点を通して様々な問題を見たとき、問題の本質には、個人的、社会的な区別はないと教えられました。発刊にあたり関係者諸氏のご苦労に感謝申し上げます。
折戸 芳章
「じぇじぇじぇ」、「今でしょ」、「倍返し」、「アベノミクス」、「お・も・て・な・し」と、今年の流行語大賞候補が他にも多く思い出されます。
候補にはなりませんでしたが、『広辞苑』にも載っていない「誤表示」という言葉が流行しました。有名ホテルのレストランなどでメニュー表示と異なる食材を使用していた問題で、「偽装」ではなく「誤表示」だと釈明に繰り返し使用したことから生みだされた流行語です。人は思い込んでしまうと、それが偽装であれ、誤表示であれ、間違っていることさえ分からなくなり、自分をも見失ってしまうものなのです。
今年の『本山法語カレンダー』一〇月で「世の中が便利になって一番困っているのが実は人間なんです」とお教えいただいています。
私たちは、まさに日常の便利さと幸せを追い求めてきた結果、本当の拠り所までも見失い、間違え、さらには偽装し誤表示していたことに、東北沖地震を発端に原発をはじめとする諸問題に苦慮することで、今になってやっと気づかされたのではないでしょうか。
「頼りにならんものを、頼りにすることほど一番頼りにならんのに、その一番たよりにならんものを一番頼りにしているから、本当に頼りにならん」のです。
しかし、頼りにならんものを頼りに生活してきたことは事実であり、のがれられません。
いよいよ今年も残り数日となり、来年春には三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤まります。
御遠忌を機縁に、私たちの日常の生活形態が偽装と誤表示を拠り所にして、間違った思い込をしていないかを問い直し、私の身の事実を親鸞聖人の教えによって顕かにしていかねばならないのだと思えてなりません。
(南勢一組・法受寺住職 二〇一三年一二月下旬)
片山寛隆
身近な人の死は悲しい
しかし、その死から何かを問い学ばなければ
そして、そこから何かを生み出さなければ
もっと、悲しい
という言葉が、あるお寺の掲示板にありました。
亡くなった方をご縁として、葬儀、法事を営むということが行われてきました。先立って往かれた方は、自分の生涯を通して、生きるとはどのようなことかということを、身を以てお知らせくださったということです。
亡くなった方の願いと申しますか、先立った親は残していく子供達に何を願いとしているかということは、我々自身が残していく子供達に何を願うかということを考えれば分かることではないでしょうか。
子供に何を願うか? やはり、幸せに暮らして欲しいということがあると思います。
けれども、よくよく案じてみると、お互い自分の生涯を考えてみると、誰だって幸せを願いとするものの、それがいつもいつも叶えられる人生ではなかったということ、もっと言えば、都合のよい人生を送りたいと言うものの、我々が実際に歩む人生というものは、都合通りではないということです。思いがけないことにも遭わなければなりませんし、考えたことのないような災難にも出遭わなければならないというのが人生です。
そういう生涯を、亡くなった人、先立った人も歩んでこられたに違いありません。
人生は、お互いの都合ではありません。都合が悪いことが嫌いといっても、その事実を歩んでいかなければならないのが人生です。
だから、どんなことがあっても、生きるとはこういうことだと、夢を見るのではなく、この人生の事実を踏まえながら、どんな中にも絶望せず、しかも人間に生まれてよかったというようなものを見開いて、生き死ぬ身になって欲しいということが願われているのではないでしょうか。
(三講組・相願寺住職 二〇一三年一二月中旬)
大橋 宏雄
来年三月に三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤まります。
御遠忌法要は五〇年に一度、それは一生に一度の法要だと言ってよいのではないかと思います。その一生に一度の『時』と『場』としての法要が、私にとってどういうものであるのかを考える一つの手がかりとして、報恩講ということが思われます。
報恩講はそれぞれの場で年に一度勤められますが、報恩講について「三六五日報恩講だ」ということを聞かせていただいたことがあります。それは報恩講が単に親鸞聖人の御命日の法要ということだけではないということを教えてくださっているのだと思います。
その「三六五日報恩講だ」という言葉から私が思うのは、「姿勢が問われる」ということです。
姿勢とは聞法の姿勢ということもありますし、それはそのまま生きる姿勢ということにもなろうかと思います。
そして、「姿勢」ということで思い起こされるのは、これまで聞かせていただき、今も聞かせていただいている先生や先輩方の姿です。
そして、その姿に私は「自分をごまかさず問うていく」ということを感じます。それは大変難儀なことではありますが、そうでなければ何も聞こえないのだと思います。
「御遠忌」ということ、そして「ごまかさない」ということを思う時、これも聞かせていただいた言葉が元なのですが、
「まるで親鸞聖人のことを知っているような顔をして御遠忌と口にしているが、果たして私は親鸞聖人にお遇いしたといえるのか。お遇いしたいと思っているのか。」
という声が聞こえてきます。それは決して私を否定する声ではなく、私を歩ませる、私の姿勢を問う声として聞こえてきます。
そして最後に、『時』ということを思うと、今の姿勢を問うということが、これまでを見直させ、これからを見据えさせるのではないか。そのことは、一生に一度の『時』と『場』としての御遠忌が、まだしばらくは生きているつもりの私に、「今」という時を重く突きつけてくるように思います。
(中勢一組・淨願寺候補衆徒 二〇一三年一二月上旬)
諏訪 高典
今年も一一月二一日から二八日まで、真宗本廟(東本願寺)で、宗祖親鸞聖人の御正忌報恩講が勤まります。そして、二八日の御満座では、
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし
(『真宗聖典』五〇五頁『正像末和讃』)
の、私達真宗門徒が慣れ親しんでいるご和讃がつとまります。このご和讃は、親鸞聖人の兄弟子聖覚法印が、法然上人の六七日に表白されたものによるといわれます。
親鸞聖人は仏法のご恩は、よき師によって気づかされ、その恩徳の重き、深きことは如来本願の用( はたら) きそのものであるといただかれたことでございます。
親鸞聖人がお作りになった正信偈。そのお心は、私の口から「ナンマンダブ」、「ナンマンダブ」が出て来た。このお念仏はどこから出てきたんだろう。お念仏のルーツの根源は?
そうだ、二九歳の時、法然上人に出遇った。あの時、
「ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべし」
というお言葉と共に、あの法然上人の朗かな念仏に遇うた。その時から私の口から念仏がもれるようになったんだナー。
じゃあ、法然上人の念仏は、
「源信広開一代教」
源信僧都から。
じゃあ、源信さんの念仏は、
「善導独明仏正意」
善導さんから。
じゃあ善導さんの念仏は、
「道綽決聖道難証」
道綽禅師は?
「本師曇鸞梁天子」
曇鸞大師の念仏は、
「天親菩薩造論説」
天親菩薩は、
「龍樹大師出於世」
龍樹大師の念仏は、お釈迦さまから。お釈迦さまは、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光 法藏菩薩因位時」
私の口から出た一言の念仏のルーツをずっとさかのぼると、遂に「法藏菩薩因位時」までさかのぼり、無量寿、不可思議光までさかのぼった。
何とありがたいことか、それがあの正信偈をお作りになった親鸞聖人のお心であったと、私はいただくことでございます。
報恩講は、この親鸞聖人のご遺徳を偲ばせていただき、真実のみ教えに出遇わしていただくための、真宗門徒にとって最も大事な仏事であります。共にこの仏縁に遇わせていただきたいと思います。
(桑名組・了嚴寺住職 二〇一三年一一月下旬)
片岡 健
親鸞聖人はみんなが声を揃えてお勤めできる『正信偈』・『ご和讃』を残してくださいました。私たちは毎朝・毎晩のお勤め、仏事でのお勤め等を通して、そこから量り知れない教えをいただいています。『正信偈』などは本を見なくても読める方が多いと思います。
『仏説無量壽経』というお経には、「諷誦持説(ふうじゅじせつ)」(『真宗聖典』二〇頁)という法蔵菩薩の願いが出てきます。仏さまの教えを声に出して何度も読み、暗記して、歌うがごとく軽やかに口から出るようにしなさい。私たちにはそういう願いもかけられているのです。
数年前、門徒さんではないのですが、近所に若いご夫婦が引っ越してこられました。ほどなくご主人のお母さんが亡くなられて、お葬式と中陰のお参りをさせていただきました。六七日のお勤めが終わった後で、奥さんから質問をうけました。「ごえんさん。『帰命せよ』って何ですか」と。「どうして、そんなことを聞くの」というと、「毎日、お勤めをしていたら、気になるようになりました」と。『ご和讃』には「帰命せよ」がいっぱい出てきますからね。私は答えることができずに、「これから一緒に考えていきましょう」と誤魔化して逃げ帰りました。
そうしたら、これ以後、このご夫婦は寺へお参りになるようになり、聞法されています。この奥さんは、できれば親鸞聖人に直接お尋ねしたかったのでしょう。知ったかぶりをした私などが答えなかったのが大正解だったのですね。
声に出して諷誦、つまり暗唱できるほど読むと、この奥さんのように、時間と空間を超えて親鸞聖人に触れていけるのではないかと思います。報恩講や御遠忌に向けて、じっくりと地に足を着けて、暗記してしまうくらい教えを声に出して読む。それを通して親鸞聖人に直接お尋ねしていけるようになるといいですね。
(三重組・長傳寺住職 二〇一三年一一月中旬)