002 ご縁

伊藤達雄

「ご縁ですね!」

最近、挨拶のように交わされるこの言葉が耳の奥に留まるようになりました。

戦争終結の二年後に生まれ、十一歳の時、(小学生六年生に)伊勢湾台風という未曾有の自然災害に遭い、五千人余りの尊い命が奪われました。この数の中に、父親も、仲良しだった友達の数も含まれています。その後も、事故・災害・自死など、様々な別れがありました。そのような体験から、「死」は自分の意思に関係なく襲って来ると実感しております。

しかし、全ての事象は「ご縁」の催しにより起きる事だと解っていたように思っていたのですが、六十八歳という年齢から来るものなのか、また、死への恐怖から来るものなのか、人ごとではないと、今更ながらに気付かされております。

人間はなぜ生まれて来たのだろうか。そして、何の為に生きていくのだろうか。そんな疑問に答えられたのが仏陀だと教えて頂きました。

生まれてから社会に出る為の知識・教養を享け、成人し、社会人(つまり人生の修行者)として四十数年働き、停年を迎え残りの人生(終活人生)を十二分に「実りある時間」として過ごしたいと思っております。

そんな思いに応えてくださったのは、そうです! 親鸞聖人との出遇いだったのです。このご縁無くして現在の充実感は得られなかったと思えます。

聖人の深い、深い御教えの一つ一つを理解することはなかなか難しいのですが、響いたお言葉に日々感動しております。

「ご縁のままに」と申しますと「どれだけ努力しても無駄だ」と考えることもできるのですが、蓮如上人の『白骨の御文』には、無常は私達が「後生の一大事」つまり人生の一大事を抱えている身であることに、気付かせてくださる「ご縁」であることを教えられています。

また、曽我量深先生の講義集の中には、

人間の世界は、仏道修行すべき尊い世界である。我等の世界は、生死(しょうじ)無常だから、仏道修行に適している

(『曽我量深講義集六』六十八頁)

とも書かれてありました。

親鸞聖人の「念仏のみぞまこと」の言葉をかみしめ、これからも聞法に励みたく思います。

合掌

(長島組・深行寺門徒 二〇一七年一月下旬)

001 「道徳はいくつになるぞ」

田代賢治

明けましておめでとうございます。

本年も三重教区そして桑名別院本統寺をどうぞよろしくお願い申し上げます。

また、昨年末にはたくさんの方々が報恩講をお荘厳くださいましたこと心から御礼を申し上げます。

さて『蓮如上人御一代記聞書』の冒頭にありますように

勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人、おおせられそうろう。「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし (後略)」

(『真宗聖典』八五四頁)

と言われたことはよく知られたエピソードです。

この言葉の主意は、他力の念仏とその御たすけの後の感謝の念仏の一念を、臨終まで保つことの大切さを伝えられたものだと言われています。

「道徳」のところを自分の名前に置きかえて「おまえは、いくつになるぞ」と聞かれると、やはりドキッとするのは私だけでしょうか。虚しくムダな日々を、時間を過ごしているのではないかという、後ろめたさがきっとそうさせるのでしょう。

そのことに気づかされたならば、与えられた時間と日々をどう過ごすのか、それが問われてきます。

「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし」との善知識からのおさとしを、阿弥陀仏からのご催促と受けて、これからの一年を過ごしてまいりたいと思うことであります。

南無阿弥陀仏。

(三重教務所長 二〇一七年一月上旬)