新野 和暢
この夏に入って四〇度を超えるような暑い日が続いております。豪雨などの自然災害が頻繁に起こる日々にあって、最近私は、これまでにも増して天気予報や地震情報など、今後予想される状況を確認するようになりました。
観測する科学技術が発達し、これから降り出す雨を予測することが容易になったり、スマートフォンのアプリには、地震の規模をいち早く伝え、何秒後に私が居る場所が揺れ出すのかということまで教えてくれたりするものもあります。いつどこで見舞われるのか分からない自然災害に備えたい気持ちを持っているのです。しかし、よくよく考えてみますと、どれだけ情報を集めても想定内に納まることの方が珍しいのではないでしょうか。それは、親鸞聖人が生きた時代も例外ではありません。
聖人が関東に御滞在されていた一二一四(建保二)年の二月には、幕府の置かれていた鎌倉で大地震が起こったことが記録されておりますし、大雨による洪水や飢饉も頻繁に起こっていたようです。そうした自然災害に対して向き合った一つのエピソードが伝えられています。それは「衆生利益」の為に、お経を一〇〇〇回読もうとなされたことです。
佐貫という場所におられた四二歳の聖人は、自然災害で苦しむ人々を目の当たりにして、「何とかできないものか」と案じて、浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)を読もうとなされました。当時は、お経の功徳で願いが叶ったりするといった迷信が広まっており、まじないのようにお経を何度も読むことが民衆に受け入れられていたようです。聖人もそれを請われて、多くの人々の利益になればと考えたのかもしれません。
ところが聖人は、四・五日ほど読み続けて中止しました。なぜなら「名号の他に、何事の不足があって経を読むのだろうか」と思い返したからです。名号とは「南無阿弥陀仏」のことです。「南無阿弥陀仏」の教えに事足りていないような向き合い方をしてはいまいか、という身の事実に気づかれたのです。
我々は、あらゆることを予見して克服しようとします。しかし、その一方で、想定外の出来事が起こると、目に見えない力をも期待してしまいます。自分にとって都合の悪い出来事や、認めたくない事実は沢山あります。思い通りになることよりも、思い通りにならないことの方が多い毎日です。自然災害を伝えるニュースを見聞きする度に、自分も何か出来ることがないかと考える一方で、目を背ける私も居ます。このエピソードはそんな私に、阿弥陀仏の願いの確かさを伝えてくださり、私にとっての仏法とは何かという問いを突き付けているのではないでしょうか。
親鸞聖人の生き方を通じて、日々の生活の中に息づく仏教とは何なのかと、あらためて考えてみてはいかがしょうか。
(二〇一八年八月下旬 員弁組・泉稱寺住職)