伊東 紹子
私は愛知県一宮市のお寺に生まれ、社会に出て働いたのち、松阪市のお寺に嫁ぐご縁をいただきました。要領も飲み込みも悪い私は、新たな役割や環境にすぐに適応できないことが多く、何かに追われるように毎日を気ぜわしく過ごしていました。
いつものようにお寺のなかを走り回っていたある日、花を活けた花器の水面が目に入り、ハッとさせられました。何かに追われるようにバタバタしていた私の心は、その静かな水面とまったく異なり、大きく波立っていました。そして、私の心を波立たせていたのは、仕事をこなすことにより得られる結果や、他人から評価を得ようとする自分の欲望であることに改めて気づかされました。人は亡くなれば、欲望を満たせられなくなります。しかし、生きている間は様々な欲望と現実との葛藤で、なぜ大きく揺れ動いてしまうのでしょうか。いずれ手放さなければならない欲望に対して、私たちはどのように向き合えばいいのでしょうか。
道に迷ったとき、私たちは地図を頼りにしますが、お釈迦さまは、生き方に困ったときに頼れる人生の地図を教えてくださいました。でも忙しくなると、つい地図の存在を忘れてしまいます。花器の水面の静けさを通して、偶然にも私は当時の自分の状況を客観的に見つめることができましたが、仏さまの前での勤行、お念仏をしていても、なかなか気づけないことがあります。どのようにして、人生の地図の存在を思い出したらいいのでしょうか。
以前、「真宗の教えは答えを出すのではなく、問い続けること」と教わりました。生きていると、親しい人との別れ、病気など、いろいろな苦しみに襲われ、なぜ生きなければならないのかと立ち止まってしまうことがあります。そんな時は、聞法を通して触れることができる、お釈迦さまが遺してくださった人生の地図を片手に、こっちかな?あっちかな?と問いながら、身構えることなく気軽に歩むことで、目の前の苦しみがまた違った意味を持ちはじめるのではないかと思います。
(二〇一八年六月下旬 南勢一組・西弘寺坊守)