三枝 明史
看護大学で教えるお医者さんが二人の学生に次のようなレポートを書かせました。「手術への不安に怯える患者に『絶対大丈夫』と言ってあげるべきかどうか」。
学生Aさんは、世の中には「絶対」はないから言えば嘘になるし、言って失敗した時のショックは大きい。また、「絶対」という言葉を使わなくても患者に勇気を与えることはできるはず、と論理的にまとめました。
一方、Bさんは、かつて具合が悪くなった時に、医者から「絶対大丈夫」と言われて心底嬉しかった体験から、「絶対」ということがないことは分かっているけれども、あえてそう言ってほしい、と実感に基づいてレポートをまとめたそうです。
皆さんはどちらの意見に与しますか。やはり、テレビドラマの『ドクターX』みたいに「私、失敗しないので」と言われたいですか。
手術のリスクをまともに伝えずに「絶対大丈夫」と言うことと、リスクを伝えてその恐怖に震える患者を生んでしまうこと。その間に正解を求めることができるのか。これは最終的には「信頼(信じるということ)」とは何かという問題に突き当たる、とそのお医者さんは指摘しています。
※里見清一「医の中の蛙」二十八(『週刊新潮』二〇一八年二月八日号より)
昨年、母が手術を受けた際、私たちはその前々日に主治医に呼ばれました。先生はCGを使って、術部と術式と考えられるリスクとその対策について、それは懇切丁寧に説明されました。私は、先生の手術に関する論理的な説明よりもその人柄に信頼感を持ち、「母の担当がこの先生でよかった」と強く感じました。
そうなのです。私たちは論理的な根拠に基づいて対象を信頼していると考えていますが、実はそれは真逆で、先に信頼が生じてから、後から根拠が付いてきているのです。日常生活のどんな些細なことでも、「信じる」という作用はこのような構造を持っていることが多いようです。
親鸞聖人はこのことをよくお分かりになっていたのではないでしょうか。
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
(『真宗聖典』六二七頁)
と言われています。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん。また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
(『真宗聖典』六二七頁)
というお言葉も残されています。
ここに、信頼の究極的なありようは自己のすべてを信じることに投げ出し任せることであることが宣言されています。その時、根拠も論理もリスクも結果も無用となります。そして、そこにこそ救いがあるのではないでしょうか。
彼岸から、
汝(なんじ)一心に正念にして直ちに来きたれ、我よく汝を護らん
(『真宗聖典』二二〇頁)
と喚(よ)ぶ阿弥陀の声と、こちらの世界で、
仁者(きみ)ただ決定(けつじょう)してこの道を尋ねて行け
(『真宗聖典』二二〇頁)
と勧める釈尊の声に、我が身を投げ出す。その決定こそが信心であり救いであると善導大師は教えています。
お彼岸のこの時期にこそ、私たち人間の身に賜る「信じる」という感覚の不思議さを改めて味わいたいものですね。
(二〇一八年三月下旬 桑名組・空念寺住職)