落合 りえ
私は一昨年の八月、志摩市の源慶寺に嫁いできました。そこはサーフィンの大会がよく行われる、きれいな国府白浜近くのお寺です。
お寺に訪ねてこられる近所のおじいちゃん、おばあちゃんたちはとても優しく話しかけて下さいます。「あんた、こんな田舎によう来てくれたなあ」と声をかけられると、「海がすぐ近くにあっていいところですね」と応え、あいさつをします。
ご門徒さんの中には漁師さんや趣味で釣りをされる方もいます。時々釣った魚やなまこをいただくこともあります。ですが、私はなまこが食べられないだけでなく触れないですし、魚も触れません。ご門徒さんは調理ができるものと思って下さるのでしょうが、「ハマチが釣れたからどうぞ」「なまこがいっぱいとれたよ」と生きた魚を持ってきて下さいます。最初はびっくりしましたが、断るのは申し訳ないと思い、お義母さんにお願いして調理してもらっていました。新鮮なお魚をいただいても毎回お義母さんに調理をお願いするのも申し訳ないと思い、次第にお断りするようになりました。
気を悪くされないようにお魚を受け取るのか、どうにもできないからお断りするのか、どちらがいいのだろうと考えました。
小さな村だから皆さんと仲良くしたいですし、なるべくならご門徒さんと気まずい関係になるのは避けたいです。たくさんお魚を持って来て下さると、気にかけていただき、とても有り難いのですが、魚など活きているものは本当に困ります。
志摩に来る前、一人暮らしをしていたのですが、お隣さんやご近所の方とは、あいさつや会話をする程度の関係でした。ましてや食べ物や生ものをいただいたり、差し上げたりすることもなく困ることもありませんでした。
志摩に来てお寺に身を寄せて、ご門徒さんと接しながら生活していると、自分の思いだけではどうにもならないことがよくあり、そこから「共に生きる」と言うことの意味が問われているのだと感じています。
(二〇一八年三月上旬 南勢一組・源慶寺坊守)