尾畑 潤子
毎年、友人たちと岡山県にあるハンセン病療養所「長島愛生園」を訪れるようになって二十五年になりました。その訪問を通して、深くご縁をいただいてきたお一人に三重県出身の田端明さんがいます。田端さんは、強制隔離の法である「らい予防法」によって、戦争の最中、一九四〇年に二十一歳で「長島愛生園」に入所しています。それから七十七年の日々を短歌、俳句、詩など、折々に紡いできた言葉の数々を『石蕗の花』シリーズとして発表し、私も出版のお手伝いをさせてもらってきました。
田端さんの作品には、ハンセン病とわかった時の無念の涙、断ち切られる思いで故郷を後にした離別の涙。入所して五年、一夜にして視力を失った絶望の涙。やがて『歎異抄』との出会いによって、死から生を見つめていく人生に変わっていった歓喜の涙。涙を軸として田端さんの歩みが綴られています。そして、次のように詠っています。
舌読の点字経典血に染めて わが人生の未来を探る
(『ハンセン病の苦悩と信心』田端明著)
病気の後遺症によって指先の感覚がなくなって、舌で点字の経本を読み続けてきた日々。教えとの出会いから、田端さんは生涯のご用として「ハンセン病を正しく理解していただくために一分でも一秒でも長生きしたい」と。その言葉そのままに、各地での講演や多くの作品を通して、私たちにハンセン病に対する正しい認識と理解を語り続けてきました。
その願いを、私はどう受け止めてきただろうか?そう問い返されたのは、東本願寺発行『同朋』(二〇一七年二月号)誌の、歌人永田淳さんの言葉です。
俳句や短歌は自分だけで完結するのではなく他者と出会う場で初めて成立する「座」の文芸だと。その言葉に私は大きな衝撃を受けました。「長島愛生園」に入所を余儀なくされた田端さんのうたは、「らい予防法」廃止から二十二年、今なお、正しく理解されているとは言い難い私たちの社会のありようを問い、閉ざされたから、なお、開かれていきたい・・他者と共に開かれ続けていきたいという田端さんの「呼びかけ」がうたになっていたのです。
昨年十二月四日、田端さんは九十八歳の命を終えました。
「まだまだこれからですね」
笑顔でそう言った田端さん。別離からの更なる出会いが、今ここに開かれている。あらためてそう思う日々です。
(二〇一八年二月下旬 泉稱寺衆徒)