003 いただきます

平塚明子

私は三年ほど前に大谷派僧侶の方と結婚し、在家からお寺に嫁がせていただいたのですが、お寺に嫁ぐまで、終末期医療の現場で管理栄養士として働いていました。

私が担当させていただいていた無菌病棟の患者さん方は、余命数か月と医師から診断された方がほとんどで、みなさん様々な症状、事情でたいへんな方たちばかりでした。

それにもかかわらず、私が「お食事どうですか?」と伺いにいくと、いつも「ほんとうにありがたい、ありがたい、申し訳ない」とおっしゃり、感謝してくださる一人のお婆ちゃんがいらっしゃいました。

抗癌剤治療のため、ほとんど食べる事ができない状況にもかかわらず、病室で一人「いただきます」と手を合わせられていた事を思い出します。そのお婆ちゃんは、癌との闘いに加えて、私が日々当たり前の如くいただいている食事をすることさえ困難な状況にも関わらず、病院の決して美味しいとは言えない食事に対して「ありがたい」と頭を下げてみえたのです。

そんなお婆ちゃんの姿に対して、毎食「いただきます」と手を合せるどころか、評判のいいお店を探して行くくせに、ダイエットのために、何のためらいもなくご飯を残している私がいました。当時の私に、命をいただくという姿勢はどこにもなく、どこまでも自分のことしか考えていませんでした。

真宗大谷派では、食前の言葉として

み光のもと われ今幸いに

この浄き食をうく いただきます

と唱和します。「われ今幸いに」とは、食事をいただけることは決して当たり前ではなく、数えきれないくらいたくさんの命のおかげでいただくことができると感謝するということだと思います。

また「この浄き食」とは、食べられなければまだ生きられた命が、私の犠牲となっていることをしっかりと自覚していただくという意味ではないかと思います。

現代の日本は飽食の時代です。お腹が減ることはあっても、飢えることはまずありません。本当にありがたいことなのですが、私はこの恵まれた状況に、心からありがたいと思っているかと言うと嘘になってしまいます。私たち人間は柔軟性があり、様々な事に対応して生きていく事ができます。様々な環境、条件に対応できるのですが、逆に言えばどんなにありがたいことであっても、すぐに「あたりまえ」に感じてしまうのが私たちだと思います。

幼いころ、に実家の母に教えてもらった、ご飯の前には「いただきます」、ご飯の後には「ごちそうさまでした」と声に出す本当の意味を、二〇年以上たってから、「いただきます」「ごちそうさま」と、合掌しながら一言つぶやくお婆ちゃんのお姿から教えていただいた気がします。

(三講組・養泉寺衆徒 二〇一七年二月上旬)