003 ある日の法事から・・・

泉 有和

少し前の法事で、全ての次第が終わり、皆で食事をいただいていたときですが、そのときの法話から連想されたのか、そのお宅のご親戚に「私は無宗教や」「先祖が仏教を大事にしてきたというが、それが何故かわからん」と言い出された方がおられました。その言葉が呼び水となって、回りの方もいろいろ話されだして、にぎやかな場になりました。

その時出た話に関わって、もう三十年ほど前になりますが、教えられて、自分なりに深くうなずいたことがあったので、その方々と次のような話をしました。

我々の日常の生活だけでは、何かもう一つ満足できない。こういう生活を生涯送って、そして終わっていく、そのことの為に生まれてきたとは、どうしても思えない。もっと確かな生き方、「あっ、そうだったのか。私はこのために生まれてきたんだ」という、そういう本当の生き方を願う、それを宗教心というのではないかと。

私たちは宗教とか宗教心というと、日頃の生活や意識とは違う、何か特別な宗教的な心情や意識、そういうものを思い浮かべてしまうけれども、実は、宗教を求める心というのは、そういう特別な心ではないんじゃないか。

私たちは、生まれてから今日までずっと生きてきて、今日も生き、また明日も生きていく。そしてそのことを、別に不思議とも何とも感じない。「生きるといっても、大体こんなもんやぜ」「人間とは何年生きてもこういうもんかなあ」と、日常の心、普段の心で思い込んでいるが、実はそうではないと思う。

宗教というと、何か特別で特定の宗教を一筋に信じなければならないとか、すぐそういうことになるが、そうではなくって、それよりもっと前の、我々が特別に宗教とも感じないような、私たちの根っ子にいつもある、「確かないのちを生きたい」、「本当のものに出会いたい」という、人間であるならば必ず願わずにはおれないという根源的な要求じゃないか。そうだとすると、私たちはすべて宗教的存在だと思う。

だから、親鸞聖人が「浄土真宗」とおっしゃるのは、そういう万人に共通する、「私は無宗教だ」と言っておられる方にも働いている、我々の最も根っ子にある「確かな生を求める心」です。決して、世間に多くある、何教だ、何宗だ、というものの中の、一つの宗派ではありません。云々。

その日一日、その時の会話を頭の中で反芻しながら、人間として生まれた以上、いかなる者も、国家を超え、民族を超え、思想を超え、政治的立場を超え、イデオロギーを超え、そしてあらゆる宗教を超えて、願わずにはおれないもの、それを親鸞聖人は「浄土真宗」というのだ一切のいのち生きる者が願わずにおれない世界を「浄土」というのですと教えられたことを、あらためて思い出したことでした。

(二〇一八年二月上旬 円称寺住職)