池田 徹
「経(きょう)」といふは経(けい)なり。経よく緯(い)を持ちて匹(ひつ)丈(じょう)を成ずることを得て、その丈用あり。(『観経疏』)
―お経というのは、経糸(たていと)です。経糸は、横糸をよく貫きたもち、布を織り上げ、その織った布には、それぞれのはたらきがあります。
善導大師は、「お経(教え)とは、経糸である」と言われます。私たちの人生を一枚の布に譬えられます。布は経糸をしっかり張ることによって、横糸を渡すことができるそうです。経糸がしっかり張られていないと横糸をどれだけ渡しても、その布は用きを成さない、完成しないということです。あらためて、自分には経糸が張られていないことを教えられます。その場しのぎの、一貫性のない人生であると、炙り出されます。
仏教では人間のことを「機」と表現します。それは、「はずむ」ということです。「縁を生きる」我々は、「はずみ」の存在です。どこへ転ぶか、どんな自分に出会うのかは分からないのです。だから不安です。そんな「私」の生きる主体となるものこそが、経糸としての「経」(教え)だと言われるのです。
また、その経糸(教え)は、同時に「よく横糸を貫き持つ」という用きがあるのです。横糸とは、私が刻んできた歴史であり、歩みであります。しかしその重ねてきた時間は、「いたずらにあかし、いたずらに暮らして年月を送るばかりなり」(『御文』)と教えられるように、重大なことがあっても「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、毎日の生活に追われて、忘却し続けているのです。大震災も、原発問題も、大切な人の死も、すべて自己関心の中で「通過」させてしまうのです。無関心、個人性に終始してしまうのです。その「通過」の人生を立ち止まらせ、問題を思い起こさせ、課題として保たせる用き、促しこそ、経糸であるお経(教え)です。その、お経(教え)に出遇うことによって、個人性、閉鎖性を知らされ、関係性、人間性を取り戻していくのではないかと思います。
今年は戦後七〇年、この国の方向転換が行われました。しかし、またそのことも時間と共に忘れてしまう日常の中で、その課題を思い起こさせ、向き合い直す視点こそお経(教え)であります。
間もなく今年も終わります。皆様は、どんな歩みを刻んでこられたのでしょうか?年の瀬にあらためて、「教え」を聞き、仰ぐ、という生活の大切さを憶います。
(桑名組・西恩寺 二〇一五年十二月上旬)