池田 徹
龍樹菩薩は人間の恐れ不安を、七つ挙げています。自己流で言うと、①生活ができなくなるのではないか。②死んでしまうのではないか。③嫌なことが起こるのではないか。④人間関係がうまくいかず、居場所を失うのではないか。⑤馬鹿にされ、なめられるのではないか。⑥孤独にさいなまれ、心が落ち込んでいくのでなはいか。⑦なにか、とんでもないことを、しでかしてしまうのでないか、という問題を抱えていると言えます。
しかし、これらの不安、怖れはどこから起こってくるのかというと、龍樹は、「一切の怖畏は、皆我見より生ず。我見は皆これ諸の衰と憂と苦との根本相なり」(『十住毘婆沙論』)と言います。私の感覚する様々な不安や、恐れは、「我見」といわれる私の先入観や、物差しにあるという指摘です。そして「我見」は、生きる意欲の衰えや、憂いや、苦悩を生み出す根源であるというのです。今の環境や現在の状況が、不安や、恐れ、苦悩を生み出しているのではなく、「我見」という無明に基づく分別心、私の思い込みに原因があるというのです。
実はそれは、一回限り、やり直しができない、唯一性の人生を果たし遂げていくことを、妨げるものとして、不安と恐れがあるからです。不安と恐れに呑み込まれていくとき、人は人生を歩めなくなります。足元に、崩れ落ち、どっちを向いて歩めばよいのか、行き詰まってしまうのです。その時、その不安や恐れが、現在の状況によって生み出されているのではなく、「我見」を生きているからであると気づかされるとき、改めて現実に向き合って、悪戦苦闘していく生活が始められるのです。この言葉は、我々を歩ませ続け、人生を完全燃焼させる「教え」、「呼びかけ」であるのです。
この問題は、視点を換えると、不安や恐れの心が起こったとき、「自分」に出会うチャンスになるのではないかと思うのです。不安や苦悩を感覚した時、私がどこに立っているのか、どんな物差しを振りかざしているのかが、あぶり出されてくるのです。不安な心が出たとき、いま、自分の立っているところが、「我見」という「道理」に(「万物一体の真理」清沢満之『精神界』)背く心、迷いの心を生きている「私」を知らされるご縁となるからです。
実は、それが阿弥陀仏に出遇うということ、阿弥陀仏に照らされるという意味で、「自分」に出会うということです。
普段我々は、自分の向こう側に阿弥陀仏をたてています。不安があって、その不安を阿弥陀仏が救うという発想になっています。私の不安と阿弥陀仏とが、二元対立的な関係になっているのです。実は、不安が阿弥陀仏の呼び声であり、不安が私の実相、「迷い」を気づかせる契機となるのです。私の「ありのまま」を照らし、知らせるハタラキを阿弥陀仏と呼ぶのですから、まさに不安が、「私」―「我見」を知らせる阿弥陀さんです。
親鸞聖人は「無数(むしゅ)の阿弥陀ましまして」(「浄土和讃」『真宗聖典』四八八頁)と言われます。実はこの世の一切の出来事、私の心の動きまでが、私の生き方を問いかけ、私の実相を気づかせるハタラキかけであるということです。
二〇一六年を振り返って、どこで阿弥陀さんと出会えただろう。どんな自分と出会ったのだろう、と自問している年末です。
(桑名組・西恩寺住職 二〇一六年十二月下旬)