訓覇 浩
師走に入り、戦後七〇年という節目の年も残すところあと一月となりました。この「戦後七〇年」という言葉は、日本においては七〇年間、戦争によって、一人の人も殺されず、一人の人も殺さなかったということを表します。このことは、この上なく稀有な、また尊いことであると言わねばなりません。
ではなぜそのようなことが私たちの上に起こりえたのか。
それは「日本国憲法」、とりわけ戦争放棄を謳う第九条が、日本にはあったからだと思っております。
この「日本国憲法」について、かつて、鈴木大拙先生は、「「日本国憲法」は世界の他の国々のものと違ひ、自国の人々と他国の人々との血を流して書き上げられたもの」であり、戦争放棄の条項は、「戦争中に言語に絶した苦しみ悩み惨めさを体験したその心理の結晶と論理の帰結とに外ならない(全集六巻)」と語られています。
この言葉からも、戦争放棄は、戦争でいのち奪われた方々の、苦しみと悲しみ、またいのちを奪ってしまったものの痛み、苦悩から、私たちが「与えていただいたもの」と受け止めることができるのではないでしょうか。日本国憲法という形となった「非戦への願い」が、戦争を欲してやまない、人間の闇を照らし続け、ぎりぎりのところで、奇跡的ともいえる七〇年を生み出したのだと思っております。
しかし、現在の状況は、日本においても、戦争がそこまで迫ってきていると言わざるを得ません。今年初めの日本人人質の虐殺は、生々しく人々の脳裏に記憶され、連日報道されるテロ事件と、それに対して、多数の国が軍事行動に参加するさまは、もはや世界戦争前夜の相を呈しています。それに伴い、人々のこころも荒廃し、憎しみは憎しみを呼び、テロへの怒りは、敵とみなす人間への怨みを増幅させ、ついには人のいのちを奪うことまで正当化し、人を殺すことの罪悪感さえ奪っていきます。戦争放棄に結実した悲しみの力を踏みにじった「安保法案」が成立し、ヘイトスピーチなど、そしりの言葉が巷にあふれています。人が人でなくなっていく過程を、私たちはまさしくいま歩みはじめようとしています。
「非戦」とは単に戦わないということではなく、人を人でなくす戦争というものの絶対否定です。いかなる理由があっても戦争を否定する。私たちは、いま、戦争でいのち奪われた方々からの「非戦の願い」に、いま一度「私の非戦の誓い」として応えていくことが求められているのだと思っております。
(三重組・金蔵寺 二〇一五年十二月上旬)