訓覇 浩
二〇一六年も残すところあと一ヵ月となりましたが、今年は、ハンセン病を患った人を療養所に終生隔離し、患者やその家族に多大な被害を与え続けた「らい予防法」が廃止されて二〇年の節目の年でありました。
そこであらためて、ハンセン病隔離政策がもたらした被害に、向き合ってみたいと思います。
「つらくて、いたい。台の上に上がったときに器具の音を聞きながら気を失った。子どもを引きずり出された。顔をたたかれて目が覚める。鼻も口もガーゼで押さえらればたばたしている赤ちゃん。へその緒が波打っていた。髪の毛が真っ黒だった。子どもが殺される。看護婦は子どもをもって走っていってしまった。その時の医師はこういった。「園の規則まで破って、子どもをつくって恥ずかしくないのか」水さえ飲ませてもらえなかった。その悔しさは忘れられません」
ハンセン病回復者で、ハンセン病療養所で現在も暮らす女性が、強制堕胎させられた経験を自ら語られた言葉です。
私たちの国は、一九〇七年から一九九六年まで、九〇年にわたって、ハンセン病を患った人を一生療養所に閉じ込めるという「ハンセン病絶対隔離政策」を行ってきました。その政策が与えた被害は、「ひとりひとりの全人格、全人生にわたる」被害と表現されますが、その中でも、断種・堕胎は、最も酷い仕打ちであると、多くの入所者が語られます。
また、隔離政策は、入所者と家族、ふるさとを断絶しました。家族・ふるさととは人間にとって、私としていのちを受ける根源、託生の根源です。
さらに、園内では本名が奪われ「園名」を名のらされてきました。これは、「その人をして社会の中で生活することが許されないものとの自己認識を強いる」ためになされたと確かめられています。本名が奪われるということは、その名によって紡いできたあらゆる人間関係が奪われるということであります。
ハンセン病隔離政策は、自らのいのちのルーツであるふるさと、家族を奪い、子孫を残すことを拒絶し、さらにその人が「自分自身」であることをも奪おうとするものであったと言えます。まさしく、人間としての尊厳、独尊性そのものに向けられた刃であったのです。
今日は詳しくお話しすることはできませんが、真宗大谷派は、この隔離政策の非道さを見抜くことができず、隔離は救済であるとして、隔離を受容することを入所者に語ってきました。それは、大きな隔離政策への加担といえます。
そのような自らの歴史に向き合いながら、隔離の被害を受けた方の声をしっかりと聞き、隔離されてきた人、隔離してきたものが、共に解放される道を求めてまいりたいと思います。
(三重組・金藏寺住職 二〇一六年十二月上旬)