藤井 慈等
今年も親鸞聖人のご命(明)日、十一月二十八日を迎えます。この日を「御正忌(ごしょうき)」といって、真宗本廟は勿論(もちろん)、全国の真宗寺院でもこの日を期して報恩の法会(ほうえ)、いわゆる報恩講がお勤まりになります。
さて、親鸞聖人の亡くなられたその時のご様子を、覚如上人の『本願寺聖人伝絵(でんね)』では、「頭北面西右脇(ずほくめんさいうきょう)に臥(ふ)し給(たま)いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。時に、頽齢(たいれい)九(きゅう)旬(しゅん)に満ちたまう」(『真宗聖典』七三六頁)と、その九十年のご生涯をいわば「ただ念仏一つ」のご生涯として、感銘深く頂き直されているのであります。
ところが、そのような覚如上人のいただき方とはちがった趣(おもむき)を感じさせるのが、親鸞聖人の連れあいである恵信尼(えしんに)さまのお手紙、『恵信尼消息』なのであります。これは、親鸞さまが亡くなられたことを、お子さまの覚信尼(かくしんに)さまが母である恵信尼さまにお手紙をもって知らされるわけでありますが、それに対するお返事なのであります。しかし、娘・覚信尼さまのお手紙がどのようなものであったのか、それは残っていないので分かりませんが、親鸞聖人の九十年のご生涯、その最後のお姿に、娘さまが何らかの疑問、不審を抱いておられたことが推察されるのであります。
それというのも、お手紙には「昨年(こぞ)の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかに見候(そうら)いぬ」(『真宗聖典』六一六頁)と。そして「何よりも、殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候う」(同頁)とあるのです。つまり「殿」、すなわち夫である親鸞さまが、「往生なされたことは、今更言うまでもないことです」間違いないことだと、わざわざお答えになっておられるからであります。
そしてそれに続くお返事には、親鸞聖人二十九歳の時、比叡山を下りられて、六角堂に百日こもられた出来事、そして夢告(むこく)をうけられたこと、更には法然上人のもとに百日通われ、「生死(しょうじ)出(い)ずべきみち」(『真宗聖典』六一六頁)を確かに聞き取られたという、法然上人との出遇いが取り上げられているのです。つまり、人と生まれ、そして道を求めて歩まれた、その出発点、いわば親鸞聖人の「出世の大事」を、母と子がその人の死を通して、その「はじめ」にたち帰ることを確めておいでになるということです。
ご承知のように、蓮如上人は『白骨の御文』において、「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに」(『真宗聖典』八四二頁)と、浮き足だって立つべき大地を見失っている私たちに、「死」を我が身の死として、「後生の一大事」(同頁)を呼びかけてくださいます。
このように、報恩講は、私たち真宗門徒が何を大事な課題としているのか、その「はじめ」の一歩を確かめる、一期一会のご法事としてお勤めする事が願われています。その歴史が、今日まで脈々と伝えられてきている、そのように思うことであります。
(南勢二組・慶法寺住職 二〇一六年十一月下旬)