米澤典之
お盆のルーツをたずねていくと、お釈迦さまがご在世の頃、 弟子の目連に語ったエピソードが伝えられています。
それは、安居が終われば僧伽にお布施をしなさいというものです。
「安居」はインドでは「雨期」を指しますから、雨期が明けた頃です。日本ではそれに倣って梅雨が明けた七月中旬、 新暦の八月中旬として定着したと考えられます。
ところで「僧伽」は、仏法に集う仲間のことで、この時期は雨をしのいでお釈迦さまの教えを聴聞する大切な時間でした。では、どうしてお釈迦さまは僧伽へのお布施を勧めたのでしょうか。その理由がお盆の由来です。
「おぼん」のことを「盂蘭盆」といいます。この盂蘭盆は、もともとサンスクリットの「ウランバナ」を漢字に表したもので、それが日本に伝わりました。問題はその意味です。
「ウランバナ」は「さかさまになっている状態」を表す意味があります。
お釈迦さまが僧伽に施しをせよと言ったのは、目連がやっていることがウランバナ、やっていることがさかさまじゃないですかとの指摘だったのではないでしょうか。
目連がやっていたのは「施餓鬼」です。死んだ母親を餓鬼道に見出して供物を施していた。それが「さかさま」だと。救われなければならないのは死んだ母親ではなくてあなただと。そのためには死んだ母親に供物を施すのではなく僧伽に施しをしなさい、と。
お盆は、私たちが日頃思っている供養のあり方を確かめる行事です。
先祖や亡き人のためにという供養の方向性が問われ、仏さまの救いの対象がじぶんであったことに気づかされてはじめてお盆がお盆になります。そのことがはっきりしないと、いくら時間的なお盆を過ごしてもお盆にはなりません。
八月のお盆は終戦記念日と重なって、慰霊や鎮魂といった表現が支配的です。亡き人を慰めるべき霊と見出すのか、また鎮めるべき魂と見るのか、迎え火や送り火を焚き、また精霊と呼び、餓鬼と呼んでお膳を並び立てなくては落ち着かない私たちの「さかさま」を自覚させられたときに、ごめんなさいのお念仏となり、また、救いの対象がこのじぶんであったと知ったときにありがとうのお念仏となります。
(南勢一組・常照寺住職二〇一六年八月上旬)