013 法事は誰のものか

長崎 直

ご家庭で年忌法要を勤めることになると、法要の日取りなど、当然ひとりでは決められませんので、家族・親戚、そしてお手次の寺院との日程調整をすることになりますね。

ですから、そのようなことでご主人がお寺にきて、「今度の何回忌の法要の日を決めたいのだけれど、ご都合はいかがですか」とご相談されるわけです。

その時に、かなりの確率で気にされるのが、

「ごえんさん、遅いのはダメやけど、早いのはええんやな?」ということです。つまり法事を命日よりも後の日につとめるのは良くないのでしょう? ということを確かめたいのです。

そこで、「なぜ遅いのはいけないのでしょうか?」と返してみますと

「そりゃあ、遅れると忘れられてたと思われて、ご先祖に怒られますでなあ」

といった類の返答をいただきます。

「誰がそんなことをおっしゃってました?」と重ねて尋ねますと、

「そんなもん、みんなが言ってござるよ」と。

どうでしょうか。こういったやりとりを耳にされたり、あるいは自ら身に覚えがあったりしませんか?

そこで、「命日の先か後かで、良し悪しなどはありませんよ」と、このようにお伝えするのですが、そんなやりとりを経て、仮に命日よりも後に日取りが決まったとすると、家に帰ってから、このような説明が付け足されていませんか?

「大丈夫。ごえんさんが、やってもいいって言っとったから」

一体、誰の何を恐れて年忌法要をつとめるというのでしょうか。

法事をつとめるということは、私が仏さまの教えに出会うということです。

教えに出会うということは、わが身の事実をいただきなおし、わが身にかけられ続ける願いをいただきなおすということに他なりません。

いただきなおすということは、いただいていたはずのものがいつの間にかこぼれ落ちているということです。そして日常生活の中で再び見失っていませんか?と問いかけられているということです。

年忌法要の折には、冒頭、表白がこのように読み上げられます。

「有縁の同朋集いてこの法縁にあいたてまつる」

「いま幸いに同信同行の縁、茲(ここ)にむすばれ歓喜胸に満つ」と。

法事に出会っているのは、他でもないこの私であった。

亡き人に何かを差し上げるつもりで参ったが、実はいただいて帰るのは私たちの方であった、ということです。

そのようにいただきなおしてみますと、年忌をつとめるにあたって大切なのは、「日が早いか遅いか」とか「みんなが言っているやり方」に気を割くことではなく、「そのご縁に遇うこと」そのものだったと気付かされます。

亡き人は、今を生きる私たちに、仏法に遇うご縁として命日を残してくださっているのです。

そのこと一つを慮り、亡き人を訪ね、私が願われているという事実に深く頷いていくことが、法事の本来の在り方なのではないでしょうか。

(長島組・善明寺住職 二〇一六年七月上旬)