011 反省

鈴木勘吾

一九九〇年代に、テレビのコマーシャルで流行した言葉です。

サラリーマンが様々な問題を起こした場面で、平身低頭言い訳し、謝罪している。その隣で、横目で眺める人の額に、 「反省だけなら、猿でもできる」の文字が浮かびあがります。

それを受けてか、別の会社のコマーシャルでは、当時人気の猿回しの調教師・太郎さんが「反省」と一喝すると、ニホンザルの次郎くんが、太郎さんの立てひざに片手を付いて、首をうな垂れる姿が話題になりました。

「反省だけなら猿でもできる」

この言葉の内実は、私たちの在りようを言い当てられた気がします。

それでは、「反省する」とは何でしょうか。辞書には「自らの行いを省みること」「過去の行いについて批判、評価をすること」とあります。

親鸞聖人は仏様の智慧を通して、自身のあり方を次のように表現されました。

 

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と

(『真宗聖典』二五一頁)

この言葉から、親鸞聖人は、自身の生き方について、恥ずかしく、嘆かわしいことであると反省されています。

こうした親鸞聖人の反省感を通して、改めて感じるのは、どこまでも自身の貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、邪(よこしま)さ、欲望そのままの心で自らの行いを省みるならば、それは不誠実なあり方であり、省みるどころか却って眼を曇らせるものなのでしょう。

親鸞聖人は自信の足元を見なさい、どこに立っていますかと、問いかけてくださいます。

(四日市組・法藏寺衆徒 二〇一六年六月上旬)