折戸 沙紀子
先日、中学・高校と部活でお世話になった先輩のおばあさんが亡くなりました。その先輩は、半年前にも父親を亡くされました。
先輩とは当時、部活だけでなく、とても仲良くしていただきました。しかし、先輩が高校を卒業してからは疎遠になってしまい、先輩のお父さんの葬儀で再会しましたが、その後も会うことはなく、おばあさんの葬儀で再び再会しました。
おばあさんのお寺参りの時に、いろいろお話をしていたのですが、帰り際に先輩が、「こんな時にしか会えないって、なんかね・・・」と、言われました。
本来、僧侶の立場であれば、「おばあさんから出会う機会をいただいた」と、言うべきなのかもしれませんが、私はその時何も言えませんでした。それは、私の本当の言葉ではないし、思ってもいないことだったからです。しかし、ただただ、寂しいような、情けないような、そんな気分でした。
どこか、自然と疎遠になってしまっている人がたくさんいます。でも、今その人たちとあのころのように触れ合えるかといったらできません。私たちはいつも何かに属していて、何かに属している誰かと接しています。先輩ともあの頃、学校・部活に属していて、接していました。一対一で、人とむきあっているか、そう自分に問うたとき、先輩とやっとむきあえたような気がします。
先輩からいただいた言葉から、自分を問うことができた。そして、その機会を亡くなった、先輩のお父さん、おばあさんからいただきました。
あの時言えなかった「おばあさんから出会う機会をいただいた」という言葉は、再会を意味するだけでなく、自分自身と出遇う縁をいただいたという言葉といただくことができました。
出遇うというのは、出遇ったその日が出遇いなのではなく、出遇った日から出遇っていくものなのだと感じました。
(南勢一組・法受寺【候補衆徒・折戸 沙紀子】二○一五年六月上半期)