010 宝の山のなかに居りながら

木村大乗

蓮如上人の仰せに、「宝の山にいりて、手をむなしくしてかえらんにことならんものか」(真宗聖典P八○五御文三)という言葉がございます。つまり、宝の山の中に本当は入って居るのに、それを知らずして、手を空しくして帰っていってしまうことを、例えをもって言われているのであります。

わたくしたちは人間として、この世界に身を受け、その生涯をかけて本当にいただかなければならない、唯一の「真実の宝」があることを教えてくださっているのであります。そして、その「真実の宝」をすでに身の事実として本来いただいているにもかかわらず、その事実にまったく気づかず、目を覚ますことを忘れて、一生を空過に(空しく)終ってしまうことを悲しんで、蓮如上人は「後生の一大事」という一言にかけて、『御文』に記されておられるのであります。

さて、この、「後生の一大事」とはなんでしょうか。

わたくしたちは、誰しも、「何故自分は生まれてきたのか、何のために生きているのだろうかと」と、意識の深い根底に問いかけをいただいているといえましょう。そして生れてきたこの身は、必ず死すべくして生きていることを、誰もが知っていながら、その自分が最終的に無くなってしまうような、不安と恐れを、心の底に隠して、見ないように、触れないように、考えないようにして、むしろ尊い根本問題から逃げてしまっているのではないでしょうか。

では、わたくしたちは、どこから生れて来て、この形を受けた一生が終わる時、一体どこへ帰るのでしょうか。またわたくしたちの人類はじまって以来の祖先は、どこへ帰って往かれたのでしょうか。

この「一大事」ひとつに命をかけて求められ、明らかに聞き開いてくださった先覚者の御苦労の御恩の歴史のなかに、南無阿弥陀仏の永遠不滅の大悲のいのちのなかに、わたくしたちも、今、新しく深く、呼び覚まされて、生きて往きたいと願わざるをえません。

(員弁組・蓮敬寺)【住職・木村 大乗】二○一五年五月下半期)