泉 智子
私が数年前から毎週一度通っている外国語の教室があります。三十歳代から七十歳代の男女数名の小さな教室です。いつもテキストに入る前、前回からの一週間にあった出来事、私的な事、世の中で起った事件や事故など、楽しかったこと、興味深かったこと、驚いたことなどをできるだけ、習っている言語で話してみるよう、先生がたずねます。テーブルを囲んで座った数名のグループで会話しますから、最初は緊張しながらも、和気あいあい、ほとんど日本語になってしまうところを、先生に訂正されながら、話すことになります。
今年は年初めから、内外で心に重たいものが投げ込まれたような出来事が何度もありました。ISによる日本人人質殺害や、川崎の中学生殺害事件などが起きた時は、どうしても感情が先走った話になってしまいます。「あの人質が私の息子なら、国に迷惑をかける前に自分で死んでくれと思う」とか、「加害者が少年でも、あんなひどい事件を起こしたのだから、死刑にして当然だ」とか、いつもは気のいい人から出る言葉に、ちょっと戸惑って、何と言ったらいいのか、それも日本語ではなくて・・・。
ああそうだった、と思いついて、「私は仏教徒ですから、そのようには考えません」と言ってみます。「殺してはならない、殺させてはならない」と釈尊は言われます。だから殺していい、殺させていいって考えない。死んでいい、死なせていいなんて思わない。仏教徒なら当たり前、その場の空気に遠慮することはなかったんです。でもなかなか言い出せない。簡単なようで難しい課題です。
それぞれ個人のいのちは、自分の所有するいのちと考えてしまいますが、実は同じいのちそのものの世界、お浄土からいただいたいのちです。いのちそのものの世界から、一人一人に、皆等しく、如来様の本願といって、大きく深い願いをかけれられているのだと教えられてきました。そして、いのち皆生きらるべし、と。
かつて、長年お話を聞いてきた先生からいただいた葉書の最後には、いつも「おいのち大切に」とありました。ただのいのちではない、「おいのち」。
その言葉も大切にしながら、日々の生活の中でも、社会にあっても、空気は読んでも流されず、私は仏教徒ですから、と自分自身に問いかけながら、そして確認しながら暮らせればいいな、と思います。
(中勢一組・円称寺【坊守・泉 智子】二○一五年五月上半期)