原田 はるみ
自坊の報恩講前日、庭に青磁色した葉っぱが落ちていました。その美しい葉っぱの色に魅せられて手に取ると、それはいつも見ている緑色の葉っぱの裏面でした。いつも見ていた葉っぱの違う一面を見せられて、私はいのちをしっかりと見つめていたのだろうか、と思いました。なぜなら、美しい外見だけに魅せられて手にした葉っぱは、いのちの相によって輝いていたからです。そこには不思議な感動がありました。
私は、この感動と同じような経験を幼い頃にしたことがあります。あなたのことを、仏様はいつも見ておられるよ、と言われて信じていた十代の頃、親戚や近所の人の死にたくさん出遇って「死」を意識したことがありました。自分の命がいつか亡くなると思うことが、私の心に「死」に対する恐怖心を生み出しました。「死」を意識したことにより、当たり前に過ごしてきた日常生活が、生きていること、いのちの尊さへの感動になりました。また、「生」への疑問を持つ機縁にもなりました。その頃から私は、「死」は誰もが避けられないなら、命が終わるときには穏やかに死を受け止めるようになりたいと思うようになりました。
葉っぱの一面だけを見ていた私は、いのちの輝きに出遇うことによって、仏様はいつも私を見てくださっていることを思いました。温かい感動がゆっくりと体内に流れ込み、胸の底より湧きあがってくる涙が頬を流れるのを感じました。その時にお釈迦様のお言葉「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」(『真宗聖典』一〇五頁)の世界を思いました。
私たちは外の世界に執らわれて、私を成り立たせているいのちの相に気づかないから、私の思い、計らいで生きているのではないでしょうか。「いのち」の輝きに出遇ったとき、如来の大悲の心に触れて共鳴し、いのちを心の奥から感じて、初めて私の執着心に気づかされるのでしょう。
仏様からいただいた「いのち」の相によって、生かされている私の身の事実を素直に感じ、受け止めていきたいものです。
(中勢一組・託縁寺坊守 二〇一六年二月下旬)