片山寛隆
身近な人の死は悲しい
しかし、その死から何かを問い学ばなければ
そして、そこから何かを生み出さなければ
もっと、悲しい
という言葉が、あるお寺の掲示板にありました。
亡くなった方をご縁として、葬儀、法事を営むということが行われてきました。先立って往かれた方は、自分の生涯を通して、生きるとはどのようなことかということを、身を以てお知らせくださったということです。
亡くなった方の願いと申しますか、先立った親は残していく子供達に何を願いとしているかということは、我々自身が残していく子供達に何を願うかということを考えれば分かることではないでしょうか。
子供に何を願うか? やはり、幸せに暮らして欲しいということがあると思います。
けれども、よくよく案じてみると、お互い自分の生涯を考えてみると、誰だって幸せを願いとするものの、それがいつもいつも叶えられる人生ではなかったということ、もっと言えば、都合のよい人生を送りたいと言うものの、我々が実際に歩む人生というものは、都合通りではないということです。思いがけないことにも遭わなければなりませんし、考えたことのないような災難にも出遭わなければならないというのが人生です。
そういう生涯を、亡くなった人、先立った人も歩んでこられたに違いありません。
人生は、お互いの都合ではありません。都合が悪いことが嫌いといっても、その事実を歩んでいかなければならないのが人生です。
だから、どんなことがあっても、生きるとはこういうことだと、夢を見るのではなく、この人生の事実を踏まえながら、どんな中にも絶望せず、しかも人間に生まれてよかったというようなものを見開いて、生き死ぬ身になって欲しいということが願われているのではないでしょうか。
(三講組・相願寺住職 二〇一三年一二月中旬)