佐々木 顯彰
会議に出席するため、昨年六月に岐阜県高山市にある高山別院に訪ねるご縁をいただきました。
飛騨高山といえば、高山祭り、朝市などを思い出しますが、かの有名な念仏者として生きられた中村久子氏の生誕地でもあります。
この時、高山別院での中村久子展を拝見する機会を得ました。
中村久子さんは、三歳の時に「突発性脱疽」という難病にかかり、命が危ぶまれるために両手両足を切断し、その後の人生を歩まれた方です。
このような状況での日常生活は想像を絶するものであったと思われます。
久子さんの言葉には、母親に対する恨みと怒りを、
「宿世には いかなる罪をおかせしや 手足なき身のわれは悲しき」
と、その心中を語っておられます。
そんな生活状況の中で、お念仏の教えに出遇う原点になったのが、『歎異抄』だったのです。
久子さんの後半生を窺いますと、親鸞聖人の教えによって、身の事実を引き受けられ、仏恩への感謝と共に、両親や夫などへの深い感謝の言葉を述べられています。お念仏の教えによって、生かされている身を、
「手足なき 身にしあれども 生かさるる いまのいのちは とうとかりけり」
といただかれています。
本願念仏の教えを人生の柱として生きられ、外に向かって批判するあり方から、内なる我が身の事実を受け入れる温もりのある生き方へと転換された中村久子さんです。
久子さんの人生はともすると、昔話として捉えられ語られるかもしれませんが、決してそうではなくて、五体満足の身体でありながら、なにかしら不平不満だらけの私に、いつでも時代を超えて人生の課題を語られているように思います。
(三講組・安顯寺住職 二〇一三年六月上旬)
折戸沙紀子
私は、お寺に帰ってくる以前、葬儀会館で勤めていました。
勤めていた葬儀会館では、年間八〇〇件ほどの葬儀があり、たくさんの人・葬儀をみてきました。
その中には、身近な方をなくした、ご家族のさまざまな思いや、感情のぶつかり合い、そして、短い時間で通夜・葬儀をむかえられる慌ただしさがありました。
この、たくさんの気持ちが行き交う空間と時間の中で、私はとても苦手とする業務がありました。
それは、着付けです。
三畳ほどのスペースで、一人一五分程で着付けを行います。
たった一五分という時間ですが、着られる方というのは、故人の奥様や、娘さんや兄弟、故人ととても身近な方です。
着物を気にされる方もいれば、親戚のご心配や、会葬者のご心配をされる方、故人との思い出を語られる方、たった一五分の中での会話は、いろいろありました。一五分の会話は、あっという間です。
しかし、このような方もおられました。まったくお話されず、無言の方。故人が亡くなられてから一度も食事をとることができず、げっそりとされている方。放心状態の方もみえました。
そんな方と、三畳のスペースで二人きりでいる一五分が本当に苦手でした。
静の一五分はとても長く、何を話せばいいのか、どう接すればいいのか、ただただ、一五分という長い時間を、頭の中でいろんな思いをめぐらせて静かに終わるだけでした。
あるとき、職場の先輩に着付けが苦手だということを相談しました。
すると先輩は、「私は一番着付けが好きよ」と言われたのです。
「何で着付けが好きなのですか」と聞きましたら、先輩は、「故人が、どんな方だったのか、知ることができるから好きなんだよ」と言われたのです。
先輩は、着付けの一五分は、故人がどんな方だったか、どんな風に生きられたか、家族にどれだけ大事に思われているのか、お話しされる方の一五分でも、無言の方の一五分でも、少しだけでも、何か気づくことができる時間だと教えてくれたのです。
人と人との出遇いには、必ず別れがあり、そして、別れというのは終わりを意味していると、私は思っていました。
しかし、先輩の何か気づくことのできる一五分というのは、人と人との別れからはじまる出遇いなのです。
私は、故人や家族が、私に出遇おうとしてくれていたのに、それを無視していたのです。
別れからはじまる出遇い。先輩のように、すぐにはなかなか出遇うことができませんでしたが、一五分の静けさから生まれる苦手な感情は、何かあたたかいものに変わっていきました。
それが、出遇っているのかどうかはわかりませんが、人と人との出遇いには終わり、なくなっていくものはない。別れという出遇いが、家族だけでなく、たくさんの人の心に生きていって、伝わり、大きく繋がっていくのだと感じました。
(南勢一組・法受寺候補衆徒 二〇一三年五月下旬)
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