小幡 智博
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌は、真宗門徒にとっては五〇年に一度の御遠忌法要として、特別な法要であることは間違いのない事実であります。
宗祖のご遺徳を偲びつつ、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏のみ教えを、ともに確かめあう場として、大切な意味を持っていると思います。
一昨年、本山で勤まり、そして、桑名別院でも来年の三月二七日~三〇日まで法要をお勤めさせて頂きます。
さて、さきほど申し上げた通り御遠忌法要は五〇年に一度ですが、全ての人々の人生において必ずしも、その法要に出遇えるものではありません。
そう思うと、私たちが今回の御遠忌法要をお迎えできるということは、この上ない慶びであると言えるでしょう。
しかし、御遠忌法要にお参り出来ることだけが慶びなのでしょうか。
私達は生活において、それぞれの大切な方を機縁として、年忌、祥月命日、月忌、そして毎日のお朝事お夕事と、御本尊である阿弥陀様に手を合わせます。
日々のお朝事、お夕事をお勤めする生活の延長線に月忌があり、祥月命日があり、年忌・永代経・報恩講があります。
そして、御遠忌法要もその延長線上に位置するものであります。
お念仏を申す一日一日の生活の積み重ねが、それぞれの法要を迎えることに繋がっているのだと思います。
つまり、根幹にあるのは、日々お念仏を申す、言い換えれば報恩謝徳の気持ちを持ち続ける生活が大切なことであり、そこに慶びがあるのではないでしょうか。
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を今私たちがお迎えできるということは、数えきれない大勢の先達の日々お念仏申してくださった生活の上に成り立つものではないでしょうか。
私達は御遠忌を迎えるにあたって、特別何かを始めるのではなく、もう一度それぞれの胸に、本当にお念仏を申す生活を続けているのか、そこに慶びを感じているのかを問い直すことから始めていくべきではないかと思います。
(南勢一組・西光寺衆徒 二〇一三年七月下旬)