019レンギョウ

梅田 良惠

 私は自分のお寺の境内に、いろいろな木を植えてきました。五、六年前に、以前からほしかったレンギョウの苗木を一本植えました。一、二年の間は雑草に紛れて花を咲かせていました。ところがそれから数年経ち、あるときレンギョウそのものが無くなっていることに気がつきました。枯れてしまったのかと思ったのですが、その翌年何本かの枝が株から伸びていました。つまり、枯れたのではなく、伐採されていたのです。

 私のお寺では毎月門徒さんが、班交代で境内掃除に出ていただいております。多分レンギョウは、花の咲いてない時期に、ただの雑木としてみられ、切られてしまったのでしょう。そのレンギョウが六月に再び伐採の憂き目にあってしまいました。いよいよ立札を立て、「レンギョウここに有り、伐採禁止」とでも書いておかねばと思ってしまいました。

 さて、そこでふと考えたことがあります。
私は自分の大切な木を切った人に対して、親切心でやってくれたこととはいえ、大切な木と雑木との区別もつかない、何にも見えてないひどいやつだと思っています。逆に、私は被害者であり、また何でも見えている気になっています。

 でも、私は本当に何でも見えているのでしょうか。レンギョウを何も知らずに切ってしまった人の立場に、自分の身を置いてみたらどうでしょうか。普段、人に迷惑をかけず、ときには親切な行為をする自分が、ときとして現実は大迷惑をかけているかもしれないのです。自分が何をしでかしたのか、本当の自分になかなか気がつけない自分がいます。そこが人間の一番厄介なところです。

 蓮如上人は人々が信心について語るお講の場で「物をいえいえ」とか、「物をいわぬ者は、おそろしき」とおっしゃられました。人のことをほめたり、批判するために物を言うのでなく、お互いが自分に気づくために物を言え、というのでしょう。本を読んだりして自分に気づくという場合もあるかもしれませんが、ややもすれば自己満足で終わってしまいます。

 その上でレンギョウの今後のことを考えてみますと、「レンギョウここに有り」の立札も必要ですが、切ってしまった人に対して、「ごめんね、これは大切な木だからこれからは、気をつけてね」、と直接もの申すのがよいのかなと思っています。

(三講組・圓琳寺住職 二〇一三年七月上旬)