米澤 典之
東本願寺の「春の法要」にお参りしました。
東本願寺を創立された教如上人の四百回忌法要の表白に、こんな言葉がありました。
「ときは二〇一三年、私たちはたくさんの悲しみや苦しみの声の中で生きています」という言葉です。今、この自分に、たくさんの悲しみや苦しみの声の中で生きている、という実感があるのかどうか問われました。
法要後、総会所の「カフェあいあう」で目を馳せた展示パネルには、原発事故後、福島に夫を残し、幼い子どもと山形に避難されたお母さんの写真とメッセージがありました。
親子や夫婦が一緒に過ごせない現実を知ってはいます。しかし、その悲しみの現実をしっかりと見て、苦しみの声を確かに聞いているのかどうか。見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをしているのではないか。悲しみや苦しみを見たり聞いたりしないことが幸せだと錯覚しているのではないか。
勇気をふりしぼって発する声に耳を澄まさなくてはなりません。
「テツナギマーチ」という歌があります。
「ほうしゃのう」がないばしょで あそびたい
パパ ママ せんせい おさんぽにつれてって
みんなでてをつないで あるきたいんだ
みんなでてをつないで あそびたいんだ
春の法要でも歌われたこの歌は、福島県二本松市の同朋幼稚園の園児らが作った歌詞を、名古屋の坊さんバンド「ぷんだりーか」が曲にしたものです。パソコンやスマートホンで「テツナギマーチ」と検索すると聞くことができます。
子どもたちの願いを聞いていかなくてはなりません。
悲しみの中から未来を想い描く声です。悲しみから目を背けず、苦しみの声を耳を塞がずに聞くことが、原子力発電所を黙って許してきた大人の責任です。それができてはじめて、この自分自身の悲しみや苦しみが自覚され、誰かに打ち明けることができるのかもしれません。
悲しみや苦しみを遠ざけているうちに、自らの悲しみや苦しみも語ることができなくなってしまった私です。
一人悲しむのではなく、ともに悲しむことをとおして開かれてくる世界がお念仏ではないでしょうか。
「人と生まれた悲しみを知らないものは人と生まれた喜びを知らない」という金子大榮先生のことばが響いてきます。
(南勢一組・常照寺住職 二〇一三年四月下旬)