010伝えていくということ

三枝 公子

 日中、お寺にいると、訪ねてこられた門徒さんから地域の歴史についてのお話や最近起こった出来事など、色々なお話を聞かせていただきます。ひとしきりお話をされた後、にこにこされて帰っていかれるのを見送ります。
 あるおばあさんは、毎回のように「今日とも知れず、明日とも知れず」と、『白骨の御文』をそらんじては年を取ってしまったことを嘆かれていました。最初はあまりわかりませんでしたが、子どもが大きくなるにつれ年齢を意識するようになり、今はもう亡くなられたそのおばあさんの言葉を思い返すと、すごいなあと思います。きっと暗唱できるほど『御文』に親しんでおられたのでしょう。そのような方は私たちの世代や親の世代ではあまりおられないように感じます。

 若い人たちはインターネットなどで情報を取り出すことは簡単にしますが、その情報が正しいかどうか判断する基準を自分の中に持っていません。判断する基準は自分たちの生活を通して見えてくるものだと思います。

 思えば子どもの頃、私の実家にはお内仏がなく、両親の実家に里帰りした時に祖母が朝夕に手を合わせている横に並んで手を合わせたことが思い出されます。子どもの頃に大人が手を合わせている姿やお給仕の様子を自然に見ることができると、そのようにするものだと身についていくのかもしれません。

 また、別の方からは「近ごろの子どもは話を聞かない」、「やるべきことがわかっていない」、「言っても聞かないからいうのをあきらめたい」というような意見を伺うこともあります。私もまた「近ごろの親」なので、耳の痛いことですが、「言っていただけるということはありがたいこと」と思っております。
 
 大人の世界は効率を求められるので、子どもが自分のペースでやっていることがもどかしく、ついつい口を出し、手を出してしまって、かえって子どもの成長を妨げてしまうことがあります。だから、子どもがやるべきことに気が付かなくなってきているのではないかという気がしています。

 私の世代も、子どもの時にできないことを大人からいろいろと言われ、うるさく感じていました。年を経て、ああ、あの時に言われたのはこのことかと、助けていただいていたということが後になってわかって、もう少ししっかり話を聞いておけばよかったと思うこともたくさんあります。

 言われていなければ後から気付くこともできません。伝えてもらわないと何もわからないまま、後につなぐこともできません。
 うるさがられるとか、嫌がられるとか考えずに、大人世代は次の世代に対して伝え続けていただきたいと思います。

(桑名組・空念寺坊守 二〇一三年四月上旬)