横山 大
私は時間を作っては木を彫っています。手のひらに収まるくらいの大きさのものになります。
鋸(のこぎり)で切り分け、鑿(のみ)で大まかな形に削り、そして彫刻刀で整えていく。この一連の作業をしていると様々なことに気付かされます。
木には順目と逆目という性質があります。繊維の流れる向き、とでもいいましょうか。刃をこの流れに沿わせると素直に入り(順目)、また逆に逆らうと裂けたり欠けたりします(逆目)。それが木の姿です。
つまり、逆目に刃を入れるな、ということです。順目に刃を入れるのが道理となっております。しかしこの流れに逆らいたくなるときがあります。どうしてもこの方向から刃を入れたいのにそこは逆目になる。無理を通し逆目に入れると案の定、だいたい木の姿は酷いことになります。
しかしあきらめきれない。小さい材を使うので、なおさら都合の良い刃の向きに固執してしまうのです。この向きが都合がいいと、逆目と知りながらも、私ならうまく出来ると押し通そうとする自分がいます。そして押し通してみたとしても、木が抵抗し、裂けて悩むことになるのです。
そこで、初めて私は、道理を無視し自分本位に振舞い、結果苦悩するわが身の有様に気付かされます。しかし、たちの悪いことに、何日か経つと、まるで反省したことを忘れたかのように同じことを繰り返すこともあります。
悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに
虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる
(『真宗聖典』 五〇八頁 『正像末和讃』)
と和讃にあるように、そうしてはいけないと理解したはずなのに、欲望に押され、やめられない身の「煩悩具足の凡夫」(『真宗聖典』六二九頁 『歎異抄』)がいるのです。
そのことをたった数センチの木片に学ばされたのでした。
日常において人は様々な時間を過ごします。その一つ一つに鏡が存在するように私は思います。そして、見ようとして見れば、そこには自分の姿が映るはずです。そこにどんな自分が映っているのでしょうか?
(三重組聞稱寺住職 二〇一三年二月下旬)