伊藤 一郎
途切れつつ 野辺の送りや 寒椿
二〇一二年師走に入り、娘の嫁ぎ先の母が心筋梗塞のため急死いたしました。享年七四歳でした。
人の死が、ましてやこんなに近しい人の死が、「何故、こんなに簡単にその生涯を終えていかなければならないのか?」と、長年仏法についてご住職方から生命のご法話を聴聞させて頂きながら、「何故か、何故なのか、あんなに優しく、また大切な方が」と、悔しい思いで一杯でした。こんなことは私だけではない、何人(なんびと)も同じ思いをされたことと分かっている筈なのに、無念の思いは尽きませんでした。
「人が生きているということは必ず死がある、ということです」と、そのことがあって直後の桑名別院報恩講法要ご法話の中で花山先生に教えられ、「今、生きている命ある自分」であることに改めて命の尊さとその生きている責務を果たさなければと、「仏様の願い」に気付くご縁を頂いたことでありました。
不幸や不都合、そして苦労は避けたい、出来るだけ自分から遠ざかってほしい、と何時も自分本位の思いばかりで生きてきた自分に、「汝、これで良いのか」と気付く大切なご縁を仏さまから頂いたことでありました。
私の地方では、葬儀の直後に墓地に納骨する儀式があります。改めて振り返りますと、自宅より一キロメートル足らずの道程の「葬送の儀」がいとも厳かな雰囲気で行われていました。この日は風も強く結構寒さの厳しい日でしたが、葬列は整然と行われました。沿道の方々は葬列に手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えてくださいました。何という尊いことでしょうか。亡き人を偲ぶとともに、今ある自らの命の尊さに気付かせてくださる仏さまの声と聞くことが出来ました。
私たち門徒は、先達が残し伝えてくださったこの大切な法灯を途切れることなく後世に申し伝えていかなければと願うばかりです。
「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり。」
清沢満之先生の教えが頭をよぎります。 いつか我が身にも頂くこのご縁を仏さまが教え導いてくださったのだと気付いています。
南無阿弥陀仏
(南勢二組・道專寺門徒 二〇一三年二月上旬)