佐々木 円
先日、小学生の息子が学級通信を持って帰ってきました。
担任は二〇代前半の若い先生ですが、毎回ユニークな視点で、学級の様子や授業での話し合いを、通信を通して伝えてくださいます。
今回は「六曜から考える。迷信と理由」がテーマでした。
六曜とは、旧暦を基に「先勝(せんしょう)・友引(ともびき)・先負(せんぶ)・仏滅(ぶつめつ)・大安(たいあん)・赤口(しゃっこう)」と、現代のカレンダーにも印刷されているものです。中国から伝わり、明治六年に太陽暦が採用されてから、一般にも普及したそうです。
さて、通信には、〝結婚式は大安〟〝友引にお葬式はよくない〟という六曜の話から、迷信や因習について道徳の時間に学級で話し合った、と書かれていました。
六曜がなぜ現代も用いられているのか分からない。分からないが、何となく昔から言われているから信じているものがある。
その一つとして「清め塩」の話を先生はされました。
「〝清める〟とは悪いものを払うこと。でも、亡くなった人は悪いものなのか?」
この問いに、自分の周りで亡くなった人があった時に、〝悪いもの〟と思った子は一人もおらず、なぜそんなことを言うのだろうという意見が多かったそうです。
通信には、その後も関連した内容が続き、結びには、「おかしいと思ったことは立ち止まって考え、それに対して疑問を持ち、行動できる学級を目指そう!」とありました。
読み終えた後、最初は複雑な思いが残りました。門徒さんとのやり取りで、「普通、友引にお葬式はやらんわ」とか「そんなことないよ」と言いながら、心の中で「日程も合わないし、まあいいか」とつぶやいている私。
そんな曖昧な私に先生や子どもたちが、「ホラッ、しっかりしてよ!」と背中をバシッと叩いて、気持ちを引き締めてくれた一枚の学級通信でした。
(長島組・深行寺坊守 二〇一三年一月下旬)