第35回真宗公開講座が6月18日(土)三重県人権センター多目的ホール(津市)にて開催されました。
講師には狐野 秀存 氏(大谷専修学院長)をお迎えし、
講 題 『念仏往生とふかく信じて』
会場にはたくさんの方が来場していただき、ホールはほぼ満員となりました。
佐々木 円
先日、小学生の息子が学級通信を持って帰ってきました。
担任は二〇代前半の若い先生ですが、毎回ユニークな視点で、学級の様子や授業での話し合いを、通信を通して伝えてくださいます。
今回は「六曜から考える。迷信と理由」がテーマでした。
六曜とは、旧暦を基に「先勝(せんしょう)・友引(ともびき)・先負(せんぶ)・仏滅(ぶつめつ)・大安(たいあん)・赤口(しゃっこう)」と、現代のカレンダーにも印刷されているものです。中国から伝わり、明治六年に太陽暦が採用されてから、一般にも普及したそうです。
さて、通信には、〝結婚式は大安〟〝友引にお葬式はよくない〟という六曜の話から、迷信や因習について道徳の時間に学級で話し合った、と書かれていました。
六曜がなぜ現代も用いられているのか分からない。分からないが、何となく昔から言われているから信じているものがある。
その一つとして「清め塩」の話を先生はされました。
「〝清める〟とは悪いものを払うこと。でも、亡くなった人は悪いものなのか?」
この問いに、自分の周りで亡くなった人があった時に、〝悪いもの〟と思った子は一人もおらず、なぜそんなことを言うのだろうという意見が多かったそうです。
通信には、その後も関連した内容が続き、結びには、「おかしいと思ったことは立ち止まって考え、それに対して疑問を持ち、行動できる学級を目指そう!」とありました。
読み終えた後、最初は複雑な思いが残りました。門徒さんとのやり取りで、「普通、友引にお葬式はやらんわ」とか「そんなことないよ」と言いながら、心の中で「日程も合わないし、まあいいか」とつぶやいている私。
そんな曖昧な私に先生や子どもたちが、「ホラッ、しっかりしてよ!」と背中をバシッと叩いて、気持ちを引き締めてくれた一枚の学級通信でした。
(長島組・深行寺坊守 二〇一三年一月下旬)
渡邊 誉
一昨年は宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の年であり、その法要直前に起こった震災は、すべての人の記憶に残る出来事になりました。
そして、そのことが、真宗門徒を名告る私一人が御遠忌をどうお迎えするのかを考え直すきっかけになりました。「教え」の前では、しきりにすべての人と「共存」、「共生」を口にしながら、実は望んでいない私の日頃の生活。「人間の知恵の浅はかさ、暗さ」を語りながら、私に問われている事実に向き合ってこなかった姿は、自分だけが助かればいい、自分が生きている時代だけなんとかなればいい、というものでした。単なる開き直りや後ろめたさではなく、楽や明るさだけを求める心が実は苦悩のもとであり、深い罪業ではないでしょうか。
私は、「今だけ」、「ここだけ」、「自分だけ」では過去からのつながりや社会との関わりを見失ってしまうと思います。同時に、未来からの呼びかけや子どもたちに何を手渡したいのかを想像できないならば、本当に生きる意味が見えないということになるのではないでしょうか。
そして、そのことを宗祖は「空過」、「むなしくすぐる」と自らもいただき、また私たちに語っておられるのではないかと思います。
(員弁組・西願寺住職 二〇一三年一月中旬)
木嶋 孝慈
初春を寿ぎ、お慶びを申し上げますとともに、本年もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
皆さま方には、新しい年を迎えられて、心新たに、今年こそは良い年にしようと、それぞれに、今年一年の希望と申しますか、「志」を新たにされたことと存じます。
毎年年末恒例になっています、その年の世相を表す漢字は、九三二年ぶりに日本の広範囲で観測された金環日食や、世界一の自立式電波塔として、金字塔を打ち立てた東京スカイツリーの開業。
そして、ロンドンオリンピックでの金メダルを筆頭に、日本史上最多の三八個のメダル獲得や、iPS細胞の研究で、金メダルに等しいノーベル賞を受賞された山中教授。
さらには、年金資金運用の詐欺事件や、生活保護費の詐欺事件。消費税増税の税金問題等、金かねにまつわる「金」でございました。
そして世間では、尖閣諸島の問題をはじめ、北朝鮮のロケット発射など外交問題が山積する中、自民党が政権に返り咲き、危機突破、経済再生を掲げて、第二次安部内閣が発足しました。
確かに、何か目標を立てて、それに向かって、一生懸命になる。一つのものを極めるために、金メダルを取るために、努力するということは必要なことなのでしょう。
しかし、一等賞をとるために、他のものを踏みつけ、排除し、そのことだけに執着するといったあり様がいいのでしょうか。
「自然法爾(じねんほうに)」という言葉がございます。
「自力をすて、如来の絶対他力にまかせきること。人為を捨て、ありのままにまかせること」ということでございますが、なかなか、了解できない真理であります。
我々は、何か目標を立てて、そのことを成就しようと一生懸命になる。でも、成就できなければ、そこで怒り、腹立ちの心が満ち溢れてしまいます。
また反対に、目標が達成されれば、そのことだけに満足できず、また新たな目標を立てて、あくせくあくせくしてしまいます。
我々の欲望というのは、とどまるところを知りません。
一つの欲望をかなえるために、どれほど他人を踏み付け、傷つけ、排除してきたことでしょうか。
そういった「我欲」にとらわれている自分の有り様が照らしだされ、「我も、他の者も、共に生き合える世界の発見」というものが、今こそ求められているのだと思います。
そういった世界の有り様を映し出してくださるのが、「南無阿弥陀仏」のお念仏ではないでしょうか。
本年も、ともどもに、「お念仏」のいただける生活をしてまいりたいと存じます。
あらたまのとしの初めは祝うとも 阿弥陀仏のこころ忘るな
(三重教務所長 二〇一三年一月上旬)