035帰敬式 ― 法名の名のり

訓覇 浩

三重組金藏寺(こんぞうじ)の訓覇浩です。法名、釈浩雄と申します。

師走も半ばに入り、今年も「桑名別院報恩講」をお迎えする時節となりました。

その報恩講で毎年執り行われるのが「帰敬式(ききょうしき)」おかみそりです。今日は、この帰敬式について、法名の名のりというところから考えてみたいと思います。

そもそも帰敬式とはどういう儀式なのでしょうか。桑名別院報恩講のパンフレットを開いてみると、「本来、帰敬式はお釈迦様の弟子になる、仏弟子となる式です。ですから、亡くなってから受式して法名を受けるのではなく、生きている今だからこそ人間としての生き方、在り方を問い、学んでいこうという出発を期する大切な儀式」とあり、仏法僧の「三宝(さんぼう)に帰依(きえ)することを誓い法名をいただきます」と記されています。皆さまのイメージと重なったでしょうか。

私は、この帰敬式において、とりわけ大切な意味をもつのが、法名を名のるということだと思います。

私ごとになりますが、私が、法名をいただいたのは、19歳になる夏でした。その時私は法名をいただくということを決めてはいたのですが、一方で、私のようなものが法名をいただく資格があるのだろうか、三宝に帰依するなんて言いきれないし、仏弟子と名のるなんておこがましくてできるはずがないと悩んでいました。

そういう私にある先生が、法名を名のれない私であるということは、名のれない私が法名を名のることによって本当の課題になるのですよ。名のれない私だから名のりませんというのは、誠実そうに見えて実は、自分の事実から逃げているのかもしれませんね、と教えてくださいました。その言葉は、いまも私を問い続けてくれています。

法名は、私の名のりでありますが、それは、わがこころがよくて名のるものではなく、本願が私の上に名のり出てくださっているということだと思います。こういう私であるからこそ名のり出てくださった。私の名のりが、私の名のりであることを超えて、本願に背き続ける私を常に照らし、私に生きる力を与え、新たな私を生み出し続けてくれています。

その意味で、帰敬式とは、新しい私の誕生の儀式と言うことができるのではないでしょうか。これからも釈浩雄という名を、私の生き方を照らし、生きる道をしめしてくれるものとして、大切にしてまいりたいと思います。