030鏡としての仏さま

檉 歩

浄土真宗は「御本尊を明らかにする」教えだと聞いています。また、御本尊は自分を映し出す鏡だとも聞くことがあります。この二つのことばを聞くなかで、ずっとハッキリしないことがありました。私の中で御本尊というものはとても大切なものであるから、御本尊を明らかにするという事は、人生において私が大切にしなければいけないことや大事なことを見つけていくことなんだと何となく思っていました。何となくなので、そう簡単に見つかるはずもありません。

しかし、いろんな方のお話などを聞くなかで、御本尊とはこの私をハッキリさせるための鏡のような存在なのではないかと思い始めました。私たちは、自分のことを認められず周りの人をうらやんだり、さげすんだり、背伸びしながら常に他人の評価を気にして生きています。そんな自分が御本尊を明らかにするといっても、こういう事を大切にしたいとか、大事なのではないかと思う。という願望や希望で、いつまでも自分の問題になりません。そうではなくどこまでも変えられない自分だったり、目をつむりたくなる私の姿に目をそらさずに見ていける眼をいただくのではないかと思います。

私は4年前から児童教化連盟の委員長に就任しました。児童教化連盟とは子どもたちと仏様の教えをともに聞く団体です。夏に子どもたちとキャンプをするジュニア大会がありますが、委員長になってから大会を楽しめなくなっている自分がいます。日程をどううまく過ごせるか、テーマを一緒に考えていけるのか、スタッフはついてきてくれるのかなどを考えると、不安で仕方ない感覚にとらわれるようになりました。それまではそんなことを考えたこともありませんでしたが、立場が変わると責任というプレッシャーから押しつぶされそうになりました。

いつでも他人の評価を気にして善し悪しに怯えている私の姿を、委員長という立場から御本尊は照らし出して下さっていました。

しかし私は御本尊から照らし出されている姿をすぐに忘れ、目をそらして生活してしまいます。だから私は仏法を聞き続けていかなければならないのです。