021人はなぜ過ちをくりかえすのか

星川佳信

近頃西の鈴鹿連峰から東にジェット機やらヘリコプターがやたら飛び交う、深夜もお構いなし。何のための飛行なのか。轟音の向こうで今何がおきているのだろうか。

今、政府は積極的平和主義を標榜し、集団的自衛権行使を憲法解釈で可能にしようとしています。自衛隊が米国の戦争に加担することを可能にする法律です。

人類は、平和を求めたゆまない努力をしてきました。しかし、戦争は止むことなく、血で血を洗う憎しみの連鎖は地球上を覆っています。

かつて日本は戦争の大義をアジア諸国の平和のためとし、太平洋戦争に突き進んでいきました。あれからもう69年の歳月が流れようとしています。

誰しもが戦争や差別はだめだと声高らかに言います。しかしその一方、時代の閉塞感は徴兵制を望み、戦争や差別を肯定するかのような声が公然とささやかれる時代となってきています。

人は何故同じ過ちをくりかえすのだろうか、と自問します。

『歎異抄』には、

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

(『真宗聖典』634頁)

と教えられています。つまり縁がもよおせば人は、百人千人も殺すことがあるのだと、しかし縁がなければ人ひとり殺すこともできないというのが人間だと。

平和を願いながら、そこにひとつになれない。人間の共通する願いが真実(まこと)であっても、その歩みにおいて分裂するのです。もっと言いますと人間の思惟(理想)には限界があるという事なのでしょう。

安田先生は、「仏教で言う願は理想を求めるのでなく、かえって現実に呼び返す願です」と述べておられます。

人は、歩みにおいてバラバラであっても「願いを共有する」ことはできるはずです。業縁に動かされる私どもを真実(まこと)の道に引き戻す、そのはたらきが念仏だと思います。