019不便な生き方

箕浦彰巖

私たちは、家庭の暮らしの中で親子、兄弟、姉妹等、様々な関係を持って生活していると思います。

私も親子という関係、そして2人の弟の兄という関係をもって今日を暮らしています。

そんな兄弟関係を振り返りますと、勝気な三兄弟であるので、しょっちゅう喧嘩をしていたように感じます。

しかし、その原因を改めて振り返ると、間違ったことをしている弟に対して、「兄として言い聞かせてやろう。」という私の根性があり、それに反発する弟に対して、「兄の言うことが聞けないのか。弟のくせに生意気な態度を取るんじゃない。」と、横柄な態度を当たり前のように取っていたように思います。

そんな時、私の父は常に私に言い聞かせてきた言葉があります。

それは、「お前は、誰のお陰で兄になっているんだ。」という一言です。

仏さまの教えには、私達の存在は、「遇縁の存在」であると説いておられます。「縁」に遇っていく存在。それは私の力で選び取る存在ではなく、選ぶことができない「縁」によって明らかにされてゆく存在であるということです。

父の一言は、後に生まれるというご縁を頂いてくれた弟がいるから、私は兄にさせてもらっているという関係を、仏さまの教えを通して教えてくださったのです。

しかし、そういった事実を教えられていても兄弟喧嘩は絶えず、その度に「弟くせに生意気だ。」という心が沸き起こってきます。

親鸞聖人は、『御消息集』の中で、

煩悩具足の身なれば、こころにもまかせ、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいうまじきことをもゆるし、こころにもおもうまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにあるべしともうしおうてそうろうらんこそ、かえすがえす不便におぼえそうらえ。

(『真宗聖典』561頁)

と、おっしゃっておられます。

自分の想いを中心にした考え方、生き方は、煩悩に振り回された「不便」(気の毒なこと。心の痛むこと)な姿である。つまり、私のことで言えば、「年下」、「弟」を下に見て、下に見ている存在は、「未熟なもの」という偏った考え方と、それで間違いないという執着の姿は「不便」であると、おっしゃっておられるのです。

そういった「不便」な生き方をしている私たちに、

親鸞聖人は、『歎異抄』の後序で、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。

(『真宗聖典』640頁)

と、お念仏の道を勧められておられます。