018ふくろうとの出会い

佐々木顯彰

5月5日は子どもの日です。その日、境内を掃除していましたら、私の目の前に一羽の産毛のふくろうが落ちてきました。

今まで経験したことのない出来事だったので、その時の気持ちは、「餌が欲しい、助けて」と言っているような泣き声に聞こました。そのため、驚きと共に直感的に野に帰すのではなく、ペットとして飼育してみたいとの気持ちで一杯になりました。

このような動物との出会いは、自分以外には多分経験されないだろうとの思いも起こり、証拠写真も撮りましたが、後になって親鳥がいないか、探していないかと気にしながら過ごした3日間でした。

飼育するなら先ず「ふくろうの生態」や「飼育方法」を最初から勉強しようと思い、様々な資料で勉強を始めました。しかし、そこには私の「飼育したい」という思いを拒否するかのような様々な言葉が並んでいました。

先ず「CB固体」、「WC固体」。「CB固体」は、飼育下で繁殖した固体を表し、「WC固体」は、野生の状態で捕獲された個体を表しているそうです。そうなるとこのふくろうは「WC固体」になります。更に、ふくろうは肉食の猛禽類なので、マウス(ねずみ)などを捌い(さば)て与えること、トイレなどのしつけなどは不可能であること、慣れる(なじむ)ことはあっても、馴れる(なつく)ことはないなど、人間の方がふくろうに合わせた、ふくろう優先の生活を考えるべきであると教えられ、更に夜行性のため、就寝時間帯の泣き声が気になる。ワシントン条約で制限されている希少種ですから、野生の捕獲は生態系に大きな影響を与えることになることなど、様々なことが分かりました。

この学びを通して、分かったつもりでいた自分が、全く分かっていなかったことを教えられたように感じました。

7日の午後、行政に引き取っていただきました。

『日めくり法語』の中で竹中智秀先生が、

私たちはいつでも自分の都合を中心にして、えらび、きらい、見捨てる。

(『いのちにめざめる』山科東御坊)

とご指摘下さっています。

3日間のふくろうと私との関係を思い返すと、自分の思いを中心にした、私の姿を教えられたように思います。まさに自分の都合ばかりを考える「我執」の姿がそこにありました。

ふくろうは、暗闇でも思うように行動できる鳥です。その理由は、高い視覚と聴覚をもっているからだそうです。

私たち人間にはそのような能力はありません。しかし、自身が無明の闇の中にいることを、教えられる光明に出遇うことは、聞法生活によって導かれるではないでしょうか。

親鸞聖人もその光明に出遇うことで、自身の姿を教えられたのではないかと思います。