尾畑文正
2011年3月11日に、東日本大震災と、原発事故がおきました。いまもなお震災の復興も、原発事故による放射能汚染も収束できない深刻な状況にあります。
原発問題とはなんでしょうか。1つには、原発はいつでも巨大事故の可能性をもつということです。2つには、原発は必ず被曝する労働者を必要とします。3つには、原発によって発生する核廃棄物は処理することができません。現在だけでなく未来にも負の遺産をおしつけていく問題です。
現在も福島の事故現場では多くの労働者が被曝の危機の中で働いています。この人たちの犠牲の上に、私たちの今の豊かさと便利を求める生活があります。このような共に生きるべき「大地」を見失しなっている生き方が仏教でいう闇です。その私たちの闇が原発事故を通して厳しく問われています。
それでは闇を闇として知るとはどういうことでしょうか。親鸞聖人は仏さまの智慧と私たちの無明の闇との関係を、太陽の光と夜の闇になぞらえて、「日いでて、夜はあくというなり」(口伝鈔『真宗聖典』652頁)とたとえられたといいます。闇の自覚は光に出遇わなければ起きてこないのでしょう。
しかし、その光が見えない。否、見えないのではなく、光から逃げています。例えていえば、青空の下に居りながら、青空を見ないで、胸先三寸の我が思いの中で、ああなればいい、こうなればいいと、自分の思いが満たされることばかりを願っています。そういう自分に気づいて、ただ頭を上げれば、一面の青空です。自分の思いに固執するために、それができないのです。
自分の欲望の満足に固執して、共に生きる大地に立ち上がることを見失っています。そういう私たちの無明の闇が、今、3年をむかえた福島の現実を通して、まさに共に生きる大地そのものから、それでいいのかと問われています。その問いこそが闇を照らす光です。