訓覇浩
今日は「響き合ういのち」ということで少しお話させていただきたいと思います。
いきなり、自分の話からで申し訳ありませんが、先月の末、住職修習を受講し、住職に任命されました。全国から集まった住職になろうとする人たち、そして、総代さん方と、3日間、真宗本廟での時を同じくし、これからのお寺をどのように盛り立てて行くのか、熱のこもった話し合いの場に身をおかせていただきました。
そこから改めて、強く感じましたことが、「響き合う」ということです。響き合うということは、ひとりでは成り立ちません。共鳴する音叉のように、互いと互いの存在があってはじめて響くということは起こります。「響存」という言葉があります。ふつう「きょうぞん」というと、共に存在するという「共存」ですが、この場合は「響き合い存在する」という「響存」です。単に一緒に存在しているということではなく、お互いがお互いを響かせ合いながら存在している。人と人とのあり方の表現として、非常に積極的な言葉といえるのではないでしょうか。
さらに、この響くという言葉は、教えが私たちの上に働くときのすがたとして、しばしば用いられてきました。なじみの深いかたも多いと思いますが、『仏説無量寿経』のなかの「嘆仏偈」には、「正覚大音 響流十方(大いなる教えの声が、十方に響きわたる)」(真宗聖典11頁)というお言葉があります。教えと教えをいただくものが、呼応しあう、響き合うということです。
また、安田理深先生は、南無阿弥陀仏ということを「打てば響く」ということで表現されています。少し難しい言葉ですが、ご紹介いたします。
「南無阿弥陀仏南無という言葉は、目覚ました言葉であると共に、目覚まされた言葉である。つまり目覚ましめたものに対する応えという意義があると思う。だからこれは独覚ではない。呼びかけに対して応答するというものであり、打てば響くというものである。我々を打つ言葉であると共に、我々に響いた言葉である。南無阿弥陀仏は根源の言葉であると共に、呼応の言葉である」
寺に集う人々が響き合い、教えが聞法する人の上に響きわたる、まさしくいのちが響きあう場として寺が開かれていくことが強くいま願われているのだと思います。
今月は真宗本廟で報恩講が勤まる月でございます。これから、各お寺、そして御同行のお家でも報恩講が勤まっていくことと思います。講とは集いということでありますが、その集いが、いのちが響きあう集いとなるよう、聞法の姿勢を整え、私にとっては住職となった最初の御正忌をしっかりとお迎えしたいと思っております。