松下至道
私は以前、聞法会で子どもを亡くされた方の話をしたことがあります。自分は僧侶だが、どういう言葉をかければいいか分からない、と話した時、参加者の中に、「子どもを亡くすということは悲しみの極みだけど、その方の場合は何人かおられるお子さんのうちの1人でしょ。私たちに比べればましです。私たちは2人いた子を両方亡くしたのだから。そういう人もいると言ってあげてください」と言われた方がおられました。
私はその言葉に応えることができませんでした。その方は子どもさんの死の悲しみを乗り越えたいと願っているはずだと思います。それが、本人は慰めるつもりなのでしょうが、悲しみさえも比較の材料にして、悲しみにおいて優越感を得ようとしてしまっておられる。人は自分の悲しみさえも、他人と比較して優劣をつけて苦しんでいくものだということを感じました。何回か聞法会に足を運ばれている方ですが、「聞いていても何にもなっていない」とも言われていました。
優越感や劣等感の悩みを超えることが聞法をすることの大きな意味です。「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」。比べる必要がないことを教えてくださっている『阿弥陀経』の言葉です。人間の世界では優越感や劣等感を超えることはできない。だから、仏様が人間の世界を超えたお浄土を建立されたのです。
聞法会に参加されていた方は、「聞いても何にもなっていない」と言われながら、それでも聞法会に参加され続けられている。それは、仏法に自分たちの問題を超えていく道があることをどこかで感じておられるからだと思います。
私は、優越感や劣等感を超える道は浄土の教えを聞くことだけだと、ある聞法会に出たときに感じさせてもらいました。それ以来、人間の世界を超えたお話を聞くのですから簡単ではないですが、それでも優劣の苦しみを超えるには教えを聞き続けること、それだけだと思っています。