028「ありがたい」の出どころ

本田武彦

「ありがたい」、「ありがとうございます」という言葉は、阿弥陀仏のご恩をいただく真宗門徒にとって、また人と人が共に暮らしていく上でとても大切なものであります。しかし、ややもすればそれが単なる口癖となり、かえって自分自身の生活の在り方を見つめる眼を曇らせることになるのではないかと思うことがあります。

月々のお参りなどに伺うと、私よりも年配の方がみえることが多いのですが、やはり体のあちこちに不調を抱えておられる方がほとんどです。また、それにともなって、生活の中の仕事が今までのようには進まなくなってくるのは、誰もが感じておられるところでしょう。そして、そうしてお話しされた方は「まあそれでも、何とかやっておるのやでありがたいと思わないかんわな」というようにおっしゃるのが常なのです。日常よく聞き、また私自身も使ってしまう、この「ありがたいと思わないかん」という言葉ですが、あらためて考えてみると、どうにもおさまりが悪いような気がしてならないのです。

「ありがたい」、「ありがとうございます」というのは、本来とても素直で美しい言葉だと思います。しかし、それが「ありがたいと思わないかん」ということになるならば、自分自身に向かっていうときには、何かをごまかしあきらめるような意味をもち、人に向かっていうときには、自分の思いを押しつけるような重圧を持った言葉になるのでしょう。いづれにしても「ありがたい」という言葉が生まれてくる本来の出どころからはずれたものになってしまうのは確かなようです。

私自身もよく口にするこの感謝を表す言葉について考えたみた時、それが自分のどんな思いから出たものなのか、また本当に頭が下がったところから出ているのかどうかを、改めて確かめていかねばと思わされたことです。