025「現在」を楽しむ

中川和子

先月、8月3日に、長女9歳の得度式に家族全員で京都の東本願寺に行ってきました。およそ150人受式者が全国から集まり、その殆どが15歳以下の子どもたちでした。

その子どもたちに向けて、受式後、宗務総長からお祝いのお言葉を頂きました。そのお話の中で、親鸞聖人が9歳で得度をされた時に詠まれたといわれている次のような歌を紹介されました。

明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

そして、親鸞聖人が生きられた時代はたいへんな飢饉に見舞われ、食べる物がなく、今のようにファミレスやコンビニもない、明日生きているかさえ分からない生活の中で、「今」この瞬間を如何に生きるかの大切さを表現された歌だとお話されました。

また、世間では「過去現在未来」と言うが、お経では「過去未来現在」と言い、「現在」を一番大切な瞬間と教えてもらっていることもお話頂きました。仏様の教えに出遇うのは「現在」しかないという親鸞聖人のお言葉を頂いたことです。

以前読んだ本で「極楽」のことを、死んでから往くところではなく、「現在」私たちが生きている瞬間が、「楽しみの極まり」と書いて「極楽」とよぶのだと言われていました。

先日、雑談中に、ある坊守さんが、4人の子育てに老僧夫婦やご住職の食事、お寺のことに追われたいへんだったが、「楽しかった」と当時の瞬間的な思いをお話され、「だって、4人の子どものいろいろな関係と、ご門徒さんやお寺の付き合い、その数分だけのつながりが出来て、本当に楽しかったし、今も楽しい。これは、こっちからどんなに求めても得られない出遇いだから」とおっしゃいました。

私はその言葉を聞いて、自分が自分の「現在」を「極楽」とは思えず、どこか先送りしたところにある「極楽」ばかり求めていることにはっとさせられました。自分からは求めても得られない、有り難いたくさんのご縁の中で「現在」を生きているのに、「現在」を「極楽」に出来ない「私」がおるなと思います。

娘の得度式をご縁に、私自身が、「現在」を楽しむことを仏様から願われているのだと教えて頂き、共に教えに出遇わせて頂けたことを本当に嬉しく思いました。