酒井誠
蓮如上人の『御文』(五帖目一三通)に、
それ、南無阿弥陀仏ともうす文字は、そのかずわずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり。(真宗聖典839頁)
とあります。
住職になり、ご門徒から時々「どうして本山にはお札とかお守りが売っていないのですか」という質問を受けます。
私たちが何気なく感じる宗教とは、災いを除いて福を得る、除災招福であり、そういう意味の現世祈祷です。お念仏を称えるということも、そこには先祖供養の願いが込められ、先祖供養を通して家内安全や商売繁盛などを祈るということが行われ、そういうことが私たちの宗教心であると思われています。
そのことに対して、仏教は真理として「一切皆苦(いっさいかいく)」、思い通りにならないということを説きます。その代表が生・老・病・死の四苦であります。生まれた以上、必ず死ななければならない矛盾を抱え、生きる間には必ず老い、病になり、死んでゆくということが避けられないのです。
しかも、その事実を、私たちは事実として受け止めてゆくことが容易ではありません。私は数ヶ月前に痛風発作が起こりまして、それ以来、薬は飲んでも時々痛み、痛む足を引きずってお参りに行くということが続いています。そうしますと、「どうして自分だけがこんな目に遭うんだ。理不尽な」という愚痴しか出て来ないのです。
つまり、生・老・病・死という四苦が人生の事実であると教わりながら受け入れられないのが私たちなのです。生・老・病・死の人生に意味や価値が見出せないのです。むしろ逆に、健康で長生きして、しかも裕福に、ということばかりを願っているのです。
最近の風潮を見ても、金と健康が、現代における本尊かと思うくらい、喧しく大事だ大事だと叫ばれています。その一方で、ますます老・病・死は無意味・無価値と思われています。
そういう時代にあって念仏はどのようなはたらきなのでしょうか。
親鸞聖人は『教行信証』の「行巻」に、
悲願はなお大地のごとし
と二ヵ所引文されています。
私たちが老・病・死の人生に一体何の意味があるのか、と倒れ伏す大地、その大地はまた私たちが立ち上がり歩む時に支えてくれる大地です。
念仏とは、悲願とは私たちの死んでゆく人生に、老・病・死の現実に倒れ伏している私たちに生きる情熱を呼び起こしてくる、そして、立ち上がる時を待ち続け、大事に生きてほしいと願い続けてくださるいのちの叫びではないでしょうか。