森英雄
年末になると大掃除が始まります。普段、手を入れていないところを丁寧に磨き上げると気づかされることがたくさんあります。
例えばお風呂掃除。普段でも排水溝や床は磨くことがありますが、天井部分や換気扇を外すことはありません。洗面台の裏にも水垢がたくさんたまっていて真っ黒になっています。水は流れる性質がありますが、でこぼことしたところでは、流れが澱みますから結構カビが生えています。目に見えるところは洗って落とせますが、見えないところには目も手も届きません。
まさにそこに光が届くのが仏さまの十二種類の光でしょう。
無量で無辺な光とあります。いつの時代も誰の所へも届かないところはないという意味でしょうか。お掃除をする心まで教えてくださいます。自我がするお掃除は「してやった」がありますから、他人に評価をおねだりする心です。自分だけがすることには抵抗があります。そんな心でする仕事ですから、どうしても雑になりますし、手を抜くことばかりが頭をよぎります。評価を期待しながら手を抜く心。まさに地獄を作り出す心です。
そういう自分に呆れかえる、その一点が仏さまの光に触れる原点です。自分が自分に呆れるのですから、仕事をすること自体が満足となります。南無の門とは、自分に呆れるところに始まる世界が無限に展開するということでしょうか。まさに「無碍(むげ[どんな障害物も越えて働く智慧の光])」と言わずにおれないものに遇うことでしょう。
自分に賜った弥陀の智慧の光、これを「信心」と名づけます。
せめて1年に1回だけは、その総点検をすることが大事です。それを信心の溝さらえとして、勤めてきたのが報恩講ではないでしょうか。
未だ智慧の光に出会っていない人は、日頃の心がどこから出ているのかを深く問い詰め、自分に呆れ、びっくりすることが必要でしょう。そして、既に光に召された人は、分かった立場に留まって、感動を失っていないかを総ざらいする大掃除が必要なのではないでしょうか。
亡くなって750年の時を超えてハタラク、親鸞聖人の慈悲と智慧の心に出会わなければ、あいつが、こいつがと言っている間に火葬場に行くことになってしまい。一生が空しく過ぎてしまいます。