片山寛隆
私たちは人生の価値として、健康・お金・能力を身に着けて、人生の意味を見出そうと生きています。それを先人・清澤満之という方が、人間とは「外物を追い、他人に従うことをもって己としている存在」だと言われました。しかし、健康もお金も友だちも、本当の人生の拠り所とはならないことも知らされてくるのが、人生を歩むということでもあります。外が私という存在の拠り所とならないということになった時、初めて拠り所を内に求めるという働きをするのも、人間の在り様でもあります。
「誰も当てにならん。当てにしていたこと自体が間違いであった。これからは、他を当てにしてきたことを反省し、自分自身がしっかりと生きていく道を歩むのだ。自分自身を拠り所にしていこう」
このような意見に同感だとおっしゃる方がいらっしゃるのではないかと思います。そして、その自己を見つめ、「長い人生を振り返ってみると、反省することばかりです」と言われる方がいらっしゃいますが、人間というのは案外自分を買い被っているということがあります。宗教哲学者のティリッヒという人が、「人間というのはどこかで自分を肯定している」と、こう言っています。例えば、誰かに「あなたはちゃんとやっていますか」と尋ねられると、たいてい「私は他人に後ろ指を指されるようなことはしていない」と自己肯定するものです。
ですから、自己反省すると言っても、そこに本質的に自己肯定の体質をもつということから一歩も出ていないのであります。南無阿弥陀仏の教えとは、その自己反省しているという私を破ってくださる教えであります。