北畠顕
この度は、私自身の限りない欲望について考えてみたいと思います。
法事や法要を勤めさせていただいた時、お布施をお預かりしますと、その金額によって、私はいつも嬉しくなったりがっかりしたりしてしまいます。そもそも、お布施は仏の教えに感謝し、仏に供えさせていただくものであって、私が頂戴しているものではございません。しかし、どうしても私のものであるかのように感じ、その金額によってあれこれと思ってしまうのです。
その原因を考えてみますと、全てのものごとに対して、自分を中心に考えてしまうという、私の欲望に行きつきます。「お金をたくさん持っていれば幸せになれる」「少ないよりは多い方が優れている」「無いよりは有る方が良い」という思いは、自身の欲望を中心としたものの見方であり、この自己中心的なものの見方を仏教では「我執」と言います。
自分の望む結果であれば嬉しくなり、そうでなければがっかりしている。つまり、私は自分で勝手に定めたものの見方でもって一喜一憂してしまっていたということです。しかし、この自分中心の考え方に気づかされ、お布施をお預かりして自らの欲深さをつくづく思い知らされるその一方で「たくさんいただいた方が嬉しい」と思ってしまう気持ちから、私はどうしても離れることができずにいます。この何処まで行っても「我執」から離れることができない私を思い知らされた時、『歎異抄』後序の
自身はこれ現に罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)、曠劫(こうごう)よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ(真宗聖典640頁)
という言葉が浮かんできました。煩悩は人の身に備わってしまっているもので、人間は煩悩から離れることなしに生きてはいけない。何とか離れたと思ってもすぐにまた戻ってきてしまう。煩悩から離れられない浅ましい身であるとこと、親鸞聖人自身も自らのこととして自覚しておられ、そんな我らこそ救われるのが弥陀の本願であることを「普段煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん[煩悩を断ぜずして涅槃を得る])」という言葉で仰っておられます。
日々の生活を過ごす中で否応なく感じさせられる「我執」。それを自らの一部として自覚し、受け入れ、その上で救われていく。私はこの教えをわが身のこととして有難くいただいていきたく思っております。