伊藤一郎
松阪市内から帰宅途中にこんなことがありました。
交差点で停車したところ、前の車から運転していた男性が降りてきて、私の車の窓辺に来て、「何かあるんか!」と怒鳴りました。私は突然のことに「何がだ!」と声高に言ってしまいました。
信号が変わり、前の数台の車が走り出していきました。彼の車もそれだけ言うと直ぐ発進し、途中、間もなく左折して道を変えて行きました。
ここ166号線は「大和高田松阪線」の名称で、奈良方面への主要道となっています。私の家は松阪駅より約25㎞の距離にあり、そのほとんどが追い越し禁止の道のりです。
今、考えてみますと、その日は夕方より会合の予定があり、その準備で急ぎ帰宅する必要がありました。時速50㎞の規制の中で、前の数台の車の追い越しはできません。「自分の思い」のみでつい前の車に接近しすぎたことが相手には腹立たしく思われたのだと、「その短い言葉」から察しられました。
この日、時間に追われている自分が、前を走る車で(全く思い通りにならない事態に)知らず知らずに攻撃的な走りをしてしまったのかと反省しきりです。
立場を変えてみると「なぜ、この後ろの車はこうも接近してくるのか、車間距離が必要なのに、しかも追い越し禁止を知ってのことか」等々と。
彼の姿そのままが思い通りにならずに苛立つ自分の身だと、深く反省の心が起こるまでにしばらく時間がかかりましたが、一つ間違えば事故にもなりかねない事態であったと気づかせていただきました。急ぐ理由があったとはいえ、「自分の思い通り」にしようという私の身勝手さを、「それでいいのか」と前の運転者が仏さまの光となって、この私に悟らせていただいたのだと今やっと気づくのです。
そんな身勝手な「ほんとうの私」がここに居ます。
常に自分を中心にすべての事柄を進めていこうとする私に、こんな形で仏さまが目覚めさせてくださったことなのだと、このこと・このご縁を大切にしていかなければと気づいています。
柱に掛かっている『日めくり法語』17(真城義麿『あなたがあなたになる四八章』)には、 「私のわがままは 当たり前 他人のわがままは 許されない」とあります。「許さない私」、胸に私そのものだと響いています。